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パレスチナ問題の歴史的背景をめぐって論議
非核の政府を求める会核問題調査専門委員会
(2021.7.13)

  非核の政府を求める会核問題調査専門委員会の例会が7月13日、栗田禎子・千葉大学教授を講師に招いて開かれ、「パレスチナ問題の歴史的背景」をめぐって活発に論議しました。
 栗田さんの報告要旨を紹介します。
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 《「シオニズム」の歴史的性格》
 シオニズムというのは、ヨーロッパの外に出てユダヤ人国家を持とう、そのシンボルとして「シオン(エルサレム)に帰れ」と叫んだ政治運動、ユダヤ人国家建設運動です。
 中世ヨーロッパのユダヤ人問題をめぐる議論を見ると、ユダヤ人問題というのは、社会の矛盾がユダヤ人問題に投影されている「ヨーロッパ社会問題」だという認識が、思想家の中で共有されています。サルトルも『ユダヤ人』という本の中で、「ユダヤ人という客観的定義はない。社会がユダヤ人を作り出している」と言っています。
 それに対して1890年頃になると、ヨーロッパの中で解決していこうと思ってもダメだ≠ニいう議論が表れます。例えばヘルツルは『ユダヤ人国家』という本を出して、隣の社会に同化するという幻想は捨てて、ユダヤ人国家を持たない限りユダヤ人問題は解決しない≠ニ言い始めます。それが引き金になって翌97年、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議が開かれます。
 ヘルツルの『ユダヤ人国家』で興味を引かれるのは、候補地を2つ挙げていることで「パレスチナもしくはアルゼンチン」と書いている。この時期、中東はオスマン帝国の支配下で、土地を割譲してくれないので、「無理だったらアルゼンチンでもいいかな」といった感じでしょうか。ウガンダにも視察に行っている。「パレスチナ問題」は「アルゼンチン問題」とか「ウガンダ問題」だったかもしれないわけです。
 ところが1914年に第一次世界大戦が勃発して、同盟国側についたオスマン帝国が敗北、滅亡したことで、中東への入植が現実味を持ってきます。大戦中に、イギリスとフランスが「サイクス=ピコ協定」という戦後の分割協定を結んで、中東の北半分はフランスが獲り、南半分はイギリスが獲ることになります。
 大戦後、シリアとレバノンはフランスの委任統治領、イラクとヨルダン、パレスチナはイギリスの委任統治領になりますが、その境界線に客観的な根拠があるわけではありません。たまたま当時のイギリスとフランスが交渉する過程で適当に引いた線で、それが今、中東の国境線になっているわけです。
 ただ、ある程度人口がまとまらないと入植者国家として独立に至らないわけですが、その画期になったのはドイツにおけるナチス政権の成立です。1933年にドイツでナチが政権を取ったことが、ヨーロッパからユダヤ人の流出を促し、皮肉なことにそれが逆にシオニストにとってはプラスに働いたのです。

 《イスラエル建国(1948年)後の展開》
 入植者国家を作るプロジェクトは、第二次大戦後の1947年、国際連合総会の「パレスチナ分割決議」によって弾みがつくことになります。「パレスチナ分割決議」で、イギリス委任統治領だったパレスチナを正式にユダヤ人国家とアラブ人国家の2つに分ける案が示され、48年、イスラエルが建国するわけですが、それまで入植者が取得していた土地は6%しかなかったのに52%もユダヤ人国家に割り当てるという、とんでもない決議です。
 翌48年5月、イスラエルが建国されます。それに抗議してアラブ連盟諸国が攻め入って、第一次中東戦争が48年から49年まであって、その結果、勝ったイスラエルの支配地域が国連分割決議で決まった地域の1・5倍に拡大します。
 エルサレムを含むヨルダン川西岸はヨルダンが管理し、ガザ地域はエジプトが管理するというふうに近隣アラブ諸国がコントロール下に置く形となったのです。しかし、イスラエルの圧倒的勝利に終わった1967年の第三次中東戦争で、ヨルダン川西岸もガザ地域もイスラエルの支配下に入ってしまいます。
 1948年の第一次中東戦争に始まり、56年の第二次中東戦争、67年第三次中東戦争、73年第四次中東戦争と戦争が続きます。
 第二次中東戦争は、エジプトのナセル政権が革命後、1956年に行ったスエズ運河国有化があって、それに抗議して旧宗主国のイギリスなどが攻め入った。その時、イスラエルもエジプトに攻め入ったわけです。ここにきて建国後のイスラエルが新たな役割を果たし始めている。具体的にはアラブの国が先進資本主義国にとって都合が悪い政策をとり始めると、それを叩くために出てくる地域の暴力装置、突撃隊みたいな役割をイスラエルが果たしているわけです。
 そう見てくると、イスラエルというのは米国の別働隊なわけで、米国がイスラエルを支援するのは当たり前ということです。

 《1990年代以降の展開》
 その後、パレスチナ人たちの主体的な運動が始まり、パレスチナ解放機構(PLO)ができ、67年の第三次中東戦争を経て、ヨルダン川西岸、ガザも含めてパレスチナ全域がイスラエルの占領下に入ったことを受けて、そのあたりからPLOは自分たちで民族武装闘争をやって自分たちの独立国家を作ろうという方向になっていきます。
 国際社会は今、パレスチナを含む「2国家解決」案――旧イギリス委任統治領パレスチナにイスラエルだけでなく、パレスチナ人国家も建設させろというのが常識になっています。ただ、60年代、70年代の夢はもっと大きかった。旧委任統治領パレスチナ全域を解放し、民主的でイスラム教徒もキリスト教徒もユダヤ教徒も共存できるパレスチナ国家を作るという夢を掲げていたわけです。
 そういう中で93年に「オスロ合意」(暫定自治合意)が結ばれて、パレスチナ問題も新しい展開を迎えます。PLO、イスラエルの両者が歩み寄って、交渉により問題を平和的に解決する方向に向かいます。しかし「オスロ合意」は明らかにイスラエルが圧倒的に有利で、パレスチナにとっては不利な内容でした。パレスチナ人の側としては民族解放闘争の大義は一方的に放棄させられながら、パレスチナ人国家をもつことが保障されたかというと、それは将来の課題に棚上げされたのです。
 しかし「2国家解決」案は、この頃から国際的にも受け入れられるようになっていきます。2002年の「ベイルート・アラブ首脳会議」が大きな画期となって、アラブ諸国を含めて「2国家解決案」を事実上認めるようになる。
 ただ、このあとパレスチナ問題は、「2国家解決」を踏みにじる形で深刻化します。91年の湾岸戦争のあたりから米国が、中東地域に直接軍事介入する方向へ舵を切るわけです。91年のイラクのサダム・フセイン政権によるクウェート侵攻、2001年の9・11同時多発テロを口実にして、父ブッシュ大統領がアフガニスタンを叩き、フセイン政権を倒した。冷戦後、中東は、米国主導の熱戦の時代となります。
 米国が「テロとの戦い」の名のもとに対中東戦争を推し進めると、イスラエルは、イスラム原理主義勢力のハマスが危険だと言って、暫定自治地域を再占領し、ヨルダン川西岸にも侵入する。イスラエルと暫定自治区との間に分離壁まで作ります。ガザについては、空爆するためにイスラエルの入植者を撤去させ、イスラエルにとってまずい問題が起きたら容赦なく空爆する。ガザは今、「地上の最大の天井なき牢獄」とか「最大のゲットー」と言われています。

 《エルサレム問題》
 直近の4、5月にエルサレムで、イスラムにとって重要な聖地であるアルアクサ・モスクに至る地域にイスラエルがバリケードを作ったために、これに対する抗議デモが起こり、イスラエルとの衝突につながりました。あるいは東エルサレム地域に対するイスラエルの入植地建設に対する抗議行動もやはり衝突につながっています。
 イスラエルの側は1980年、「一方的首都化宣言」を出して、エルサレム全体を一方的にイスラエルの首都と宣言しました。
 重要なのは、2017年、イスラエルがユダヤ人にとっての「ジュリスト・ステート」だと宣言する「ユダヤ人国家法」を作ったことです。イスラエルはユダヤ人国家だと法律に書き入れて、それ以外の民族、人種、宗教などは認めないという方向に舵を切り始めている。その総仕上げとして今のエルサレム問題が起きているのです。

 《今回の事態をどう捉えるか》
 最後に、今回ガザやエルサレムで起きた事態の性格と展望について言うと、ネタニヤフの暴挙には2つ理由があったと思います。
 一つは、米国を試したことです。トランプ政権はイスラエルと一心同体だったのですが、バイデン政権になったので、イスラエルが、バイデン政権の中東政策は変わらないかとアメリカに突きつけた踏み絵が、ガザ空爆だったのです。
 もう一つは国内向けで、ネタニヤフ政権の基盤が今、揺らいできている。ガザのテロリストに対して首相は決然と対処したという状況を作り出して、ネタニヤフ政権を続投させたいという狙いです。
 ただ、ネタニヤフの行動は裏目に出ました。国連、国際社会がイスラエルのガザ攻撃を批判し、バイデンは米国はイスラエルと地域のすべての人の安全が保障されることを望む≠ニ表明した。そこにはパレスチナ人も入っています。バイデンは「2国家解決」の方向で行くことも確認した。皮肉なことに、今回のイスラエルの攻撃の過程で、トランプ政権下で葬られたかに見えたパレスチナ民族自決権やパレスチナ人の安全は大事だ≠ニいう声が国際社会で認知されたわけです。イスラエルにとっては逆効果だったと思います。