ウクライナ情勢と核問題について考える
三浦一夫・非核の政府を求める会核問題調査専門委員
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| (2014.4.17) |
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| 非核の政府を求める会核問題調査専門委員会の4月例会が17日、開かれました。テーマは「ウクライナ情勢をどうみるか――核問題にふれて」。国際ジャーナリストの三浦一夫氏が報告しました。
三浦氏の報告(要旨)を次に紹介します。 |
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●ウクライナとクリミア
ウクライナというと、元横綱大鵬のお父さんがウクライナ人だし、体操のコマチネなど有名なスポーツ選手が多く、著名な文学者も多く、私たちにも親しみのある国です。
国際政治史を遡ると、同国のヤルタは戦後世界史の重要な出発点でした。
また、さらに歴史を遡ると、19世紀半ばに欧州の大半を巻き込んだクリミア戦争があった。トルストイが『セヴァストポリ物語』で描いたように、大量の市民が犠牲になり、『戦争と平和』執筆のきっかけともなった。その後、欧州では戦争の時代が続き、第1次世界大戦へとなりました。
しかし、このクリミア戦争は、今日の不戦・平和の国際市民の声の原点となり、二度のハーグ国際会議、国際連盟の設立、、パリ不戦条約へという世界的潮流につながってゆく。
いま、ウクライナの危機はますます深刻化し、新たな冷戦の到来も≠ネどという事態です。そうした危険性を厳しくとらえると同時に、この2つの流れをふまえて問題解決の道をさぐることが重要です。
問題解決への提起として何項目か挙げます。@ロシアに、ウクライナをめぐるこれまでの国際的合意事項を守らせる。A軍事力、力による対処の道を断固として排し、国連の主導の下で、話し合いと協議による解決の仕組みを緊急に作り上げ、作業に入る。ウクライナの当事者、ソ連を含む関係国、欧州関係諸国の参加も義務づける。B国境付近へのロシア軍の配備縮小も含めて軍事行動の即時停止。Cウクライナの自主的解決の努力。住民の自治と安全の保障。D話し合いにあたって歴史的状況をも考慮する。Eウクライナの非核政策を尊重し、世界的核兵器廃絶の活動の中でウクライナ問題を位置づけ、とりわけ米ロ、NATO諸国にその角度からの取り組みを求める。
●複雑なウクライナの歴史
ウクライナの歴史は実に複雑です。モンゴルの支配下に置かれたことがあるし、オスマントルコの影響下にもあった。オーストリア・ハンガリー帝国も入っています。そして、その複雑な歴史のなかで、帝政ロシアの版図に組み込まれてきた。その過程では、ロシアとウクライナは複雑だったが、緊密でもあった。
1943年のヤルタ会談は、世界の戦後秩序形成の場となりましたが、当時クリミア半島は完全にソ連領でした。それがウクライナ領になったのが54年。フルシチョフが譲渡してからです。フルシチョフの生まれはウクライナとの国境地帯で、育ったのはウクライナです。ソ連共産党の重要な人物はウクライナ出身者が少なくなく、ブレジネフ、チェルネンコ、ゴルバチョフなども出自から言えばウクライナにかかわりがある。政治局11人のうち4人がウクライナ人という時代もありました。
ソ連が崩壊したとき、ウクライナも91年、ソ連から独立しました。実はそのとき、クリミアも独立宣言をしていますが、かなり混迷が続きます。クリミア自主共和国をつくってウクライナからも独立することを表明したこともあります。これはその後撤回され、結局、自治共和国としてウクライナの中にとどまりました。
●ウクライナ非核宣言の世界史的意味
冷戦崩壊当時に旧ソ連が保有していた約2万発の核兵器のかなりの数量がウクライナの中に配備されていた。ソ連の重要な核戦略拠点だったわけです。戦略核が1900発。米ロに次ぐ第3の核保有量でした。
80年代末のレーガン・ブレジネフ会談など米ソ核軍縮交渉の産物として、START(戦略兵器削減条約)が始まりました。その過程でソ連が崩壊しましたが、ではウクライナやベラルーシなどに置かれていたソ連の核をどうするのかが問題となりました。
重要なのは、その過程で、ウクライナが核兵器を廃棄するという道を選んだことです。ウクライナはソ連邦の原子力政策のもとで原発もたくさん持っていました。事故を起こしたチェルノブイリ原発もその一つです。これらはソ連時代につくられたもので、悲劇ともどもそのままウクライナが引き継いだのでした。
日本の原発問題でも言えることですが、米国とともにソ連でも核兵器政策と原子力のエネルギー利用が一体的に推進されてきており、ウクライナはそうした核大国世界的核戦略のもう一つの現場でした。
ソ連崩壊、独立のあと、ウクライナは1991年議会で非核政策を決議します。ただし、それは政治的表明で、核兵器の撤去を決めたのは94年です。
ウクライナはなぜ非核の道を選んだのか。そこには、冷戦体制が変化したとはいえ、なお大国間の関係は複雑で、核保有国の核戦力と核戦略は依然として重大な問題でした。その渦中にあって、ウクライナは独立後の自国の安全保障の道を考えざるをえなかった、その中心にあったのが旧ソ連の核兵器でした。
核兵器による安全か、核兵器と決別しての安全か。独立当時の首相は、核兵器を持っていたほうが米ロ間の対立の中で自国の安全に利するという主張だったといいます。
しかし、そのなかで、結局、核兵器に頼る安全ではなく、ウクライナは自国の安全のためにこそ核兵器を一掃し、非核の国になったほうがウクライナの安全と平和の道だとする声が大勢を占めるにいたります。94年に、ウクライナは核兵器の撤去、非核ウクライナを宣言し、同時にNPTに加盟します。これを受けて、NPT加盟を確認すると同時に非核のウクライナの安全を保障することを確認したのが米英ロも参加した「ブダペスト覚書」です。
ここには複雑な米ロ大国の思惑があったのは事実であり、その思惑はその後も機能し続けています。しかし、重要なのは、このウクライナ国民の決断の裏にあった世界の流れをとらえることだと思います。
80年代後半、世界的な核兵器反対運動の発展とその動きを受けた国際政治の変化が浮上します。世界の反核運動の分野で、核兵器を「減らせ」という議論から、80年代末核兵器を「なくせ」という議論への重要な発展があったのはこの時期です。米国内でも「核のない世界」という声が広がるし、ロートブラッドなど世界の著名な科学者・文化人も「廃絶」を訴える。「なくせ」という声が大きな塊になっていく。日本共産党は米ソ両国首脳に核兵器廃絶への取り組みを提起し、ソ連共産党とは直接首脳会談も行いました。
その中で、米ソ間で、核兵器をなくすことを議題にした協議が始まりました。オバマ米大統領の「核兵器のない世界」演説は、とにもかくにもそれ以来の歴史の流れの産物です。
現在、ウクライナの国内情勢は緊迫しています。力による解決の動きが広がりつつある一方で、一部の右翼政党から「核兵器をなくしたのは失敗だった」と言う主張すら公然と出されています。
しかし、クリミア戦争以来の一世紀半余の歴史のなかで、力による世界秩序の思想に代わって、世界では不戦・平和・対話による秩序という思想が主流になりつつあります。ウクライナの非核宣言以後の30年の間に、世界では、核兵器によらない平和と安全、核兵器廃絶の声が国際政治と世論の本流になりつつあります。
ウクライナ問題の正しい解決のために重要なことは、こうした歴史の流れに立つことであり、ウクライナ問題をめぐる紛糾のなかで力の政策、軍事力思想とのたたかい、核兵器廃絶の課題を結び付けた取り組みをすすめることではないでしょうか。
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