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核密約問題が尻切れトンボになったのは、なぜか

新原 昭治(国際問題研究者・非核の政府を求める会核問題調査専門委員)


 3年前、民主党の新政権が公約した「日米密約」の調査はどうなったのか――。米軍の日本への核持ち込みの仕組みを温存するのかどうか、「非核3原則」の蹂躙をこのまま許すのかどうかは、きわめて今日的な重要問題です。
 非核の政府を求める会は2012年8月31日、東京都内で開いた会合に国際問題研究者の新原昭治さんを招き、「核密約調査が尻切れトンボになったのは、なぜか」について話を聞きました。その要旨を次に紹介します。

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核密約問題が尻切れトンボになったのは、なぜか   核密約調査が尻切れトンボになったのはなぜか、どこにその原因があったのか。核密約問題の今後をどうとらえ、非核の政府を求める会の「非核5項目」が言う「非核3原則厳守」のために私たちはどんな運動をしなければならないか――。そのことをいっしょに考えてみたいと思います。
 問題の核密約の正式名称は「討論記録」です。普通、核密約と呼んでいますが、中身は1960年の日米安保条約改定で新設された事前協議の施行細目を決めた密約です。それは、核兵器だけを対象としたものではありませんので、話の中では、事前協議密約と呼ぶこともあります。あらかじめご了承ください。
 1、有識者委員会による密約調査の幕引き

 3年前の2009年8月末の総選挙で民主党が政権党に躍り出て、鳩山内閣が出現し、内閣組閣の日の深夜、岡田外相が外務省に密約調査を命じました。その半年後の翌年3月、岡田外相が委嘱した6氏による有識者委員会が報告書を公表しました。調査はこれで幕引きとなりました。

 
■「核を持ち込ませず」原則崩し
 有識者委員会の報告書は、1960年核密約について「狭義の密約」、つまり厳密な意味での密約とは認めないと断定。「広義の密約」と故意に曖昧にしました。69年の佐藤首相とニクソン大統領の沖縄核密約については“密約にあらず”と言い切ったのです。
 結局、この3年間、日米密約問題での民主党政権の対応は、2つの点を鮮明にしました。一つは、核密約などいくつかの密約文書そのものを日本政府として初めて公表したものの、肝心の密約そのものの廃棄などの対米外交措置を何らとらなかったこと。もう一つは、それと一体で、「核を持ち込ませず」原則について有事における扱いは将来の政権に委ねるなどとして、非核3原則の切り崩しに深く足を踏み入れたことです。
 それからあと、密約問題が新聞種になるのも稀で、陰では非核3原則切り崩しが確実に進行しました。これはたいへん重大なことです。「将来」のことはその時まかせと称して、非核3原則を実際問題として国是から引き下ろしたわけですから、大いに警鐘を乱打すべきです。

 ■岡田元外相の「現実的安全保障」論
 民主党政権の密約調査が終わって2年半、関係者としてかかわった人々の中で、とくに岡田元外相の発言が政府として何を考えていたかをよく示しています。
 岡田氏は、アジア調査会での講演(2010年10月6日)で、こう言っています。
 「緊急事態の際、日本に核を持ち込まない限り日本の安全が守れないという事態があった時どう判断するか、それは時の政権が決定することであって、今からそれを縛るべきではない。これは国会答弁でも何回も発言しておりますので、答弁として確立したもの」。
 確かに岡田氏は外相当時、このような国会答弁を行ないましたが、それは非核3原則を「国是」と答弁した佐藤元首相の公式発言を投げ捨てるに等しいものだったのです。
 雑誌『外交』(外務省)昨年9月号の岡田インタビューでは、核密約調査の全過程で米政府と緊密に協議したと認め、それは「(非核3原則との関係で)日本側の意図が誤解されないよう」にするためだったと言い張っています。非核3原則が裏表なく貫徹される事態を強く恐れているのはアメリカ政府ですが、米核戦略の前に非核3原則を貫かせないための「取り組み」を日米間で行なったというわけです。
 岡田氏は、非核3原則より米核戦略を最優先する日米核密議を念頭におきつつ「イデオロギー的に核の賛否を論じていた時代から、現実的な安全保障の問題として論じる方向へと時代が変わっているのだと思います」とも言い切っています。
 「ノー・モア・ヒロシマ・ナガサキ」の叫びに根ざす
核兵器を持ち込ませるな”の国民的悲願を克服”することこそ、好ましい現実的「安全保障」だとの強弁には、唖然とさせられます。

 2、文書公開後の核安保固執の新手のたくらみ

 振り返ると、日米核密約がわが国の数人の研究者によって明るみに出されたのは、1999年から2000年初めにかけてでした。だが、研究者の中には核密約を「単なる紙切れ」と誤った評価ですませた人もいた状況下で、不破哲三日本共産党衆議院議員は2000年春の国会で首相を相手に前後6回、核密約の徹底追及に立ち、その根源を深く糾明しました。それが核兵器に固執する安保条約推進派を追いつめ、窮地に立たせました。
 これを境に、民主党を含む安保推進派は、非核3原則か安保条約かの鋭い選択の前で3原則つぶしに傾斜していったのでした。
が国 ポイントは2つあったと思います。一つは、従来、非公開のアメリカとの密約文書を政府として公開するかどうか。二つ目は、密約を公開した場合、日本への米軍の核持ち込みを妨げない方策をどのように探究するかです。もちろん後者が本質的問題であり、秘密文書を公開する以上は根本問題への沈黙は許されません。

 
■国会答弁の奇妙なパターン
 実は、「核兵器を持ち込ませない」との政府答弁は、総理就任早々の岸信介(1957年)以来ですが、国会議事録で核持ち込み問題の答弁を、米解禁文書で知ることのできる核持ち込みをめぐる日米秘密協議と対照して分析してみると、そこに一つの共通するパターンが見えてきます。アメリカ政府から舞台裏で何かひとこと言われるたびに、国会答弁が大きく変わるのです。
 例えば、1963年4月4日、ライシャワー・大平密談が行なわれ、米側から核密約の文書を示されます。国会答弁を調べるとそれ以降、途端に政府の国会答弁が変わるのです。大平外相はライシャワーとの会談のすぐ後の答弁で、「核持ち込みについての事前協議という場面が物理的に出てこないという仕組みになっているわけです」とまで答弁している。もちろん、当時としてはそれ以上の核持ち込み容認の秘密に触れられないのは、いうまでもない。
 しかし、日米秘密協議での米側の赤裸々な言明のあと、その後も国会答弁がいつも大きく変わっているのを確認したとき、まるで台風の来襲によって田畑の稲や麦の穂がすっかり薙ぎ倒される情景を見せられる思いがしました。
 それと本来的に共通する米核戦略の重みと、それに根ざすアメリカの核持ち込み擁護の衝動を、安保推進派が、2000年の一連の不破追及から感じ取ったことは、明らかでしょう。

 
■彼らの政策転換の狙い
 そのような動きの兆しは、不破追及の年の秋、のちに民主党政権下の密約究明で有識者委員会委員に任命され、肝心の1960核密約を担当した坂元一哉・大阪大学教授の場合に明瞭な形であらわれました。
 坂元氏は朝日新聞発行の月刊誌『論座』2000年11月号に、「安保密約を公開する準備を―― 『大人の同盟』への出発点に」という一文を書きます。
 彼は「取り扱いが微妙なのはやはり、核搭載艦船の寄港に関する密約のほうである。もし将来、アメリカが核政策を再転換し、再び艦船に戦術核兵器を配備するようになったらどうするか」「そうなった場合には、政府は国民に対して率直に〔非核3原則との〕矛盾の存在を明らかにすべきである。例外的に実行できない場合もある、という結論にいたったならば、そのことをはっきり国民に説明すべきである」。
 このように非核3原則を曲げてでも核持ち込みの優先保証を、と公然と主張し始めたわけです。
 彼のずるいところは事実の歪曲を含んでいることです。“いまは核艦船は絶無になった”という無根拠な弁明がそれです。1990年代初めに主要艦船での核兵器積載が取り止めになったこととは別に、日本に寄港する一連の攻撃型原子力潜水艦群のなかに、核弾頭付き巡航ミサイル配備資格を特別に与えられ、緊急配備態勢をとり続ける原潜が少なからず含まれていたことは、確たる事実でした。しかし、坂元氏を含む核軍事同盟推進派は、この重要データを見て見ぬふりをしました。この傾向は、現民主党政権にもそっくり受け継がれています。

 ■民主党も日米安保の機能維持は不変
 坂元氏に続いてあらわれたのが、当時民主党代表だった菅直人による月刊『現代』誌(講談社)2002年9月号上の「『救国的自立外交私案』――タブーなき外交論」でした。
 「日本外交を国民主権の国にふさわしい自主的自立的なものにしていくには、その前提として、何よりも過去の『密約外交』を清算する必要がある。政権交代によって民主党中心の政権ができたときがそのチャンスだ」。
 このように「密約外交」の清算を弁じた点が新味でしたが、あとは核密約の核心である核持ち込みの弁護論を展開したのでした。
 「核兵器を積んだ艦船が、自ら核兵器の存在を認めて事前協議を求めることなどありえない」。「非核三原則のうち『核の持ち込み』については、日本の国土への導入・配備と寄港とを区別して、導入・配備は事前協議の対象だが、寄港は対象外であることをはっきりさせるべきだ。もし日本が、核兵器を装備していないことを確認できなければ米戦艦の寄港を拒否するとなれば、日米安保は機能を失ってしまう」と言ったのです。
 2002年9月といえばその年の春、ブッシュ米大統領が挑戦的な新核使用戦略を打ち出した直後でした。当時の日本政府では安部晋三や福田康夫など政権当事者らが、あちこちで非核3原則を変えようと発言した、そのすぐ後でもありました。

 
■「非核2原則」化の選択
 こんなふうに、2000年の国会論議で核密約が暴露され徹底追及されたら、彼らは“あと行く道はこれしかない”とばかりに模索し提言したのが、“核密約は文書としては公開するが、非核3原則をいじって非核2原則にする”という選択だったのです。
 一方、こういう対応の検討とあわせて、“1960年核密約は本当の外交取り決めとしての密約とは言い切れない”と言いくるめる小細工も模索されました。
 その中心になったのが、有識者委員会座長として報告書の骨格を作った北岡伸一・東大法学部教授です。
 その報告書の冒頭の「序論 密約とは何か」は、報告書の中でもいちばん奇怪な内容で、独特の「日米密約論」を展開しています。すなわち、1960年核密約を含む問題の日米密約群は、20世紀前半に国際的に問題になった「古典的帝国主義外交の時代」の密約ほどの意味をもたないものと位置づけ、“ほんとうの外交上の重大な密約ではない”などとする勝手な解釈をしているわけです。つまりは、日米安保下の密約を本気で徹底究明するつもりのないことの、事実上の宣言だったのです。
 北岡氏が仕掛けた陥穽は、アメリカが第2次世界大戦後、世界中で展開した「冷戦」戦略の柱、敗戦国日独伊への米軍駐留をアメリカの軍事覇権追求の中心的な世界態勢に変えた歴史的暴挙を容認して、日本などに押し付けられた、主権蹂躙・対米従属の軍事同盟下での密約外交から、人々の注意をそらそうとしたものと言えます。
 結局、北岡座長らが中心となってこしらえた偏頗な「密約とは何か」の木靴に、一連の検討対象の日米密約を乱暴にも突っこみ、“これは真の密約とは言えない”などと勝手に断定したのです。
 こうして「狭義の密約」、つまり本物の密約でないと裁断されたのが、1960年核密約でした。1969年の佐藤・ニクソン沖縄核再持ち込み密約は、密約ではないと勝手に断定されたのです。

 
■情報操作と証拠隠滅
 有識者委員会が終わった直後、北岡氏は東大「五月祭」でこんな話をしています。
 「日本政府はこれまで、白々しい答弁をしてきた。アメリカとは事前協議をやっていないから、核兵器を積んだ船は日本に入っていないのだと。この問題については、『討論記録』(2a)に〔事前協議の対象になるのは〕『装備の重要な変更は核のイントロダクション』と書いてある。では、イントロダクションとは何かについて、2cに『事前協議は、現在の手続きに変更を与えない』と書いてある。あ、そうか、これまで通りに核兵器を積んだ船が入ってくるのだなと、この文書を見つけた人たちは思った。とくに、日本共産党がそういう解釈をとっている。これが密約文書だというのは日本共産党の解釈だ」と。
 あたかも、1960年核密約=事前協議密約が密約ではないかのごとき創作をするにあたって、北岡氏は、「密約」説を唱えるものは、日本共産党と断定する一方で、有識者委員会報告書作成にあたり、学者にあるまじき不当な情報操作をやりました。
 反証が次々に挙がっていますが、ここでは1、2の例にとどめます。
 北岡氏は、核兵器を積んだ艦船の寄港が事前協議の対象にならないという理解は、当時、日本側になかったとしています。しかし、それは真実を覆い隠すものです。
 日米安保条約改定交渉を行なった岸信介も、当時の外務省トップで日米秘密交渉にも頻繁に出席していた山田久就事務次官も、明確にそのことを知っていたことが、様々の証拠によって明らかにされています。
 たとえば、原彬久・東京国際大学大学院教授は80年代に、日米安保条約改定交渉について詳細な研究を行ない、インタビュー方式で交渉当事者から聞き取りを行ないました。
 その聞き取りで山田元事務次官は、米軍の核積載艦の通過・寄港が「事前協議」の対象にならないことを当時から認識していたと明言し、そのインタビューが録音テープに収められていました。しかも、山田氏は“核を積んだ艦船が事前協議の対象になるなどと言ったのは、要するに国会での野党対策のためで、意図的に虚偽答弁を行なった”という趣旨のことも話していました。
 私はこのことを原さんの本で知っていましたが、有識者委員会の密約作業中、共同通信が改めて原さんに聞き、山田元事務次官のインタビュー録音にもとづいて2010年1月22日、その詳報を配信しました。有識者委員会の報告書が出る前です。
 しかし有識者委員会の報告書は、この重要証言を完全に無視しました。
 もう一つは、有識者委員会報告が出された直後、アメリカの解禁文書で、実は岸も藤山愛一郎(安保条約改定交渉当時の外相)も秘密の討論記録について、核積載艦船の寄港は事前協議の対象にしないという意味をきちんと認識していたことが明らかになりました。1963年3月、池田首相が国会で原潜寄港問題で、「核兵器を積んだ原潜は事前協議の対象になります」と答弁したので、駐日米大使館が驚いて、ワシントンに報告し、ケネディ大統領を中心とする対策会議をホワイトハウスで開催して、先に述べた大平・ライシャワー密談になるわけです。それに先立って東京の米大使館で秘密文書の徹底調査を行なって、ワシントンの国務省とのあいだで改めて情報を交換したさい、重要な文書が確認されて、東京・ワシントン間の往復電報になりました。その電報で、“安保改定時から密約のもとでの核持ち込みの認識については、岸も藤山もわかっていた”という重要な内容が確認されたのです。この事実は共同通信と、続いて「しんぶん赤旗」が2010年6月に報じました。
 このように、北岡氏や坂元氏ら有識者委員会の担当者が、直視しようとしなかった重要事実について、相次いで確かな証拠が出てきているのです。

 
■「討論記録はやはり密約文書」
 さて、有識者委員会が密約調査をやっていた際、ある大新聞は、有識者委員会のなかの特定の中心メンバーに密着し過ぎた結果でしょうが、報告書公表の10日ほど前に、1960年核密約の最終評価について「核の持ち込み密約は密約ではない――外務省の有識者委員会が認定方針」という目を引く記事を掲載したところがありました(2月27日付朝刊)。その新聞は翌日付で訂正記事ではないものの、事実上の内容修正の別の記事を出したものです。
 一方、ジャーナリストとして密約調査を続けていた記者の中には、有識者委員会による密約調査後も取材を継続し、その結果を一冊の本にまとめたなかで、1960年核密約についての率直な評価として、次のように述べている人もいます。
 「こうしてみると、核搭載した艦船や航空機の日本への一時立ち寄りを事前協議の対象外とする論拠をアメリカに与えた討論記録は、やはり密約文書と位置づけるべきではないか」。
 こういう良心的なジャーナリストの的確な指摘もあることも、このさい紹介しておきたいと思います。

 3、ウィキリークス電報が示す核密約調査での日米接触

 密約調査の経過の一端はウィキリークスが暴露した秘密電報に出ています。

 
■岡田・キャンベル会談
 一つは、2009年7月21日、東京・大使館発国務長官宛ての電報で、自民党政権末期、民主党がまだ野党時代のものです。「民主党出番」の噂が飛び交っていた頃ですが、来日したキャンベル米国務次官補が、岡田民主党幹事長と会談した内容を報告しています。
 キャンベルによると、岡田氏は次のように話したそうです。
 「マスメディアはいろいろ言っているが、自分も民主党も、日米関係の正しさを信じている」「民主党の目標は、日米両国の相互関係の行く手を阻む障害を克服して、[日米]同盟が今後30年ないし50年間強力な存在として続くようにすることである」。
 岡田氏が何をさして「障害」と言ったかは電文の範囲ではわかりません。おそらく、日米密約をめぐる国民の不信感や批判の動きも意識していたのでしょう。
 一方、鳩山内閣になって密約調査を命じた直後の2009年11月27日の東京発国務長官宛て緊急電報は、ズムワルト駐日米公使が外務省の梅本和義北米局長と密約問題で話し合った内容を伝えています。
 米側は、核持ち込み隠蔽のため日本に長年押しつけてきた「NCND政策」(核兵器の所在を肯定も否定もしない政策)に言及。密約調査の成り行きが心配だと述べたうえ、「米艦船の核積載の有無を曖昧にすることは、米国の抑止戦略にとり重要」なので、「これまで以上に米艦船の核兵器の有無を明らかにするのに断固反対」と強調しています。
 非核神戸方式が広がるのを嫌悪するアメリカ政府の本音が、直截な表現で示されています。

 
■まるで米側の人間のような感覚の日本外務省の高官
 一方、米公使との協議で梅本氏は、「現内閣指導部は密約調査がもたらす意味をよく理解していないようだ」と、まるでアメリカ側の人間のような口ぶりで米公使に告げるのです。
 公使が「詳しい説明をしてあげてもいい。米拡大抑止戦略や、この問題をどんな枠組みの中で扱えばいいか話せる」と言ったら、「是非そうさせてもらえば…」と、米政府による外務大臣“説得”を進んで招き入れる発言をしています。
 梅本氏は、米側が求める通り、米艦船に核兵器があるかないかをいっそうわからなくする「新方式」を編み出す任務を請け負うのですが、「これは普天間問題以上にむずかしい問題だ」と本人は洩らしています。
 ひどい話です。非核3原則のじゅうりんの仕方をめぐる苦慮ぶりを、米公使に披瀝する外務省高官の姿勢には、あきれるばかりです。
 密約調査報告書が出る直前の翌年2月4日の国防長官宛て緊急電報は、東京での日米安保協議の内容として、再び梅本北米局長の発言を記録しています。
 そこでは核兵器問題に関連して、なんと「日本は、ニュージーランドのようになるのを望んではいない」と言い切っているのです。

 4、「事前協議密約」の対象は核兵器だけではない

 ここで核兵器から一時離れますが、1960年1月6日に藤山外相とマッカーサー大使がイニシャル署名した「討論記録」という名の密約は、もともとは事前協議密約です。核兵器だけが対象ではありません。それは、安保条約改定の際にとり入れた事前協議を、どんな場合に実施するかの細目を決めた密約でした。
 事前協議について公表された岸・ハーター交換公文は、「米軍の配置と装備の重要な変更、および日本からの戦闘作戦行動」を事前協議の対象にすると公表しました。だがアメリカは日本の米軍基地の軍事行動はなるべく自由に行なえるようにしておきたかった。
 そこで公表した取り決めと別に、実際には極力、事前協議をしないでもいい内容の密約を結んだのです。
 対象になるのは、地上基地への核兵器の長期貯蔵くらいで、あとは自由。核積載の艦船も航空機もフリーパスと密約で決めました。
 そんなわけで、密約によって日本の基地で米軍が行なう行動の「勝手度」は、99・9999%が自由にされた。何をやってもいいという密約をつくったわけです。
 米軍がどう動こうが、日本に何を持ち込もうが、事前協議の対象にはならないようにしたのです。

 
■圧倒的に事前協議の対象外
 国民には知らされなかったものの、なんでも持ち込み自由に関する事件が、現実に、過去に起きていました。
 1962年〜63年、三沢米空軍基地(青森)に米軍事偵察衛星の地上局が設置されることになりました。日本の外務省が米大使館に問い合わせてきたので、どう対応するかが問題になり、東京の米大使館がワシントンに連絡します。
 その軍事衛星の名はANNAといい、米3軍とNASAが共同でやったものですが、米国防総省の結論は、その「新装備」の持ち込みは「事前協議密約」に照らして何の問題もない。なぜなら日本政府との事前協議は、長距離ミサイルを含む核兵器の地上への長期貯蔵だけが対象だからだと回答したのです(1963年2月12日付米国防総省発)。
 「信濃毎日新聞」主筆の中馬清福氏が『密約外交』(文春新書)ですでに指摘されていた事件ですが、私が入手したこの問題の米文書は同じ筋ながら、中馬氏のものと別のもので、私が持っている米文書には、事前協議密約の重要部分までそのまま引用しています。

 
■オスプレイ問題にも適用
 これはいま大問題のオスプレイ持ち込みにも、そのまま応用されています。
 この問題では、フリージャーナリストの吉田敏浩さんが、『サンデー毎日』9月16日号でその問題点をするどく的確に指摘しています(同誌の緊急連載『沖縄 日本で最も戦場に近い場所』8回連載の第1回)。
 さらに中馬さんの本には、米軍が在日米軍基地に新しい活動を持ち込む際の、米軍の秘密順守の内部手続きが紹介されていて、興味を惹きます。いかに日本側に本当の情報を与えないようにするか、練り上げられた手順が目立ちます。手順は、次の4つの範疇からなっています。
 第一は、国務省、国防総省、米政府が次の通り合意するなら、まったく日本政府に知らせない。それはきわめて微妙で、暴露されることがまずなさそうで、秘密にしておくほうが大事なもの。思いがけない暴露により政治的反響が生じるかもしれない危険よりも、秘密にしておくほうが重要だというのが、第1の範疇です。
 第二は、日本政府に目的の一部だけ話し、質問を受けた時に部分的に知らせたことを、日米合意の公式の立場の基礎として使う。
 第三の範疇は、質問を受けた際、合意した公式の立場の基礎として使うため、日本政府に本当の目的を内々に明かしていいもの。
 要するに、在日米軍基地の活動を自由にやらせている日本政府に対しても、米軍事活動のほんとうの内容は明らかにしない場合が少なくないということです。
 岡田克也氏は、核兵器が1991年以来持ち込まれてはいないと断定していますが、そんな米軍の高度の秘密情報は日本側に知らされるはずもないのです。

 5、非核3原則の厳守、非核の日本実現を叫ぶとき

 最後に、民主党政権になって、日本政府の関連秘密文書も一定部分、公開されましたが、有識者委員会報告書はすでに説明した通り核密約を“厳密な意味での密約”とは言えないとか、沖縄核密約についてはそもそも“密約ではない”などといい加減な結論を出しました。その一方で、非核3原則の「2原則」化を、公然と進めています。
 いま、こういう重大な時期にさしかかっている以上、あらためて非核3原則の厳守と非核の日本のすみやかな実現を声高く叫ぶときではないでしょうか。

 
■非核3原則とは何か
 その点で重要だと思うのは、そもそも非核3原則とは何かということを、あらためて考えてみる必要があるということです。
 非核3原則を成り立たせた根源として、次の3つがあると、私は考えています。
 第一は、広島、長崎の被爆体験にもとづくきわめて当然の、核兵器拒否の強い意識と理念です。
 第二は、それに加えて、1954年のビキニ水爆実験による被曝を契機に大きく広がった原水爆禁止の世論と運動です。
 そして第三は、日本を核使用の基地にしようとする動きに抵抗し「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」の強い人間的叫びを絶やさず広げてきた国民の実績です。
 過去の日本の首相の国会答弁で核持ち込み否定の言明を見ると、岸信介首相が1957年4月、首相就任の2ヵ月後に「核兵器持ち込みに強く反対する」と答弁しています。この岸答弁は、明らかに国民世論の圧力によるものでした。
 当時、岸内閣のこの対応を分析した米国務省の秘密報告は、「一連のできごとは日本の大衆世論が、核兵器での日本の国家政策を形成するうえでの支配的要素であることを明確に示している」と述べ、この問題で「岸政権は全体として、日本の大衆世論の指導者であるよりその追随者だ」と分析していました。

 
■使用が前提の「核持ち込み」
 ところで、岡田元外相や彼に同調する一部学者に共通していることに、アメリカの核兵器体系の核心についてほとんど無頓着というか、無関心があります。
 一例として、外国への「核持ち込み」の根底に歴然としている軍事概念の問題があります。米軍内部の常識では、それは備蓄状態の核兵器を核攻撃のため目標に到達させるまでの過程の中の、途中経過という位置づけです。
 米統合参謀本部の軍事用語辞典は、ストックパイル・ツー・ターゲット・シークエンス(STOCKPILE TO TARGET SEQUENCE)という用語で、これを表現しています。
 つまり、米本国に貯蔵された核兵器を、海外に行く艦船や航空機に積み込み、最終的にはそれを攻撃目標に到達させるまでの全連鎖過程の途中に、「核持ち込み」を位置づけているのす。
 核持ち込みはあくまで核兵器使用過程の一環です。核持ち込み問題の米解禁文書では、それが常識です。
 その意味で、「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」の悲願を踏みにじる、絶対に許せない核使用のための前提という鋭い位置づけで、核持ち込み問題を運動のなかで強調していくことが、とくに大事だと思います。「非核2原則」化を意図する連中は、このことに絶対にふれたがりません。
 ところで、最近マスコミが書かないことがあります。民主党政権成立直前の自民党政権時代に、在米日本大使館が米議会の核問題特別委員会に
核弾頭付き巡航ミサイルを退役させないでくれ”と秘かに要請した事件がありました。それはその後どうなったのか、いっさい報道がありません。
 当時は、核弾頭付き巡航ミサイル(TLAM/N)は「2013年退役」とされていました。
 だが、つい数日前の時点で、米核専門家ハンス・クリステンセン発の個人情報として、@核弾頭付き水中発射巡航ミサイル「トマホーク」はまだ退役しておらず、A2013年退役予定ということも聞いていない、B依然として数年前から現役態勢ではないが陸上で〔海軍核弾薬庫内に〕貯蔵中である――という話が私にもたらされました。
 ブッシュ政権当時の2003年末には、攻撃型原子力潜水艦用に核弾頭付き海洋発射巡航ミサイルを随時積載し、特定戦域に「長期」かつ「隠密裏に」前進配備するという新方針が国防総省によって決定されました(Inside the Navy紙2003年12月8日付)。
 その利点は隠密裏の長期にわたる海外配備が可能なことにあるとされました。この米海軍専門紙の同報道直後、米海軍もその事実を確認しています。
 当時の攻撃型原潜への核巡航ミサイル「随時」積載の新方針は、明らかに1994年のクリントン政権の核態勢見直しが「有事」にだけ攻撃型原潜に核巡航ミサイルを積載するとしたものを強化したものでした。
 一方、核ミサイルの積載資格と核攻撃能力を認証された特別の攻撃型原潜が10隻前後、太平洋水域に配備され、それら原潜がすべて日本に寄港してきた事実も確認されてきました。
 この問題をうやむやにしてはなりません。

 
■海外への米核配備政策は続いている
 重視すべきことは、アメリカがシステムとして、核兵器海外配備政策をやめてはいないことです。
 日本に頻繁に寄港をくり返している原子力潜水艦に、いざとなったらいつでも核弾頭付き巡航ミサイルを緊急配備する態勢をとっていること、場合によっては、現に「随時」配備が行なわれている可能性も排除できないことを、重視する必要があります。
 こういう核兵器配備のシステムが続いているわけですから、核兵器を日本に持ち込ませないために、そして、わが国を核攻撃の基地にさせないために、私たちは何をする必要があるかを、いま、きちんとさせていくことが大事だと思います。
 この問題を反核平和運動の中で議論していく必要があると思うのです。