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 ●日本政府の動向
 
「NPT体制と日本の原子力―1968年日米原子力協定」をめぐって論議
非核の政府を求める会核問題調査専門委員会(2019.12.20)く

 非核の政府を求める会・核問題調査専門委員会の例会が2019年12月20日、開かれ、東京工業大学名誉教授の山崎正勝さんが、「NPT体制と日本の原子力――1968年日米原子力協定をめぐって」と題して報告しました。
 山崎さんの報告(要旨)を次に紹介します。
(文責・編集部)
     ◆
 1955年の最初の日米原子力協定は研究炉に関するものです。その目的は米国の原子力技術を友好国に供与して米国を中心とする西側の陣営の協力・強化を図ることです。
 動力炉が具体的に米国で動き出すのはケネディ政権の時です。民主党政権になって軽水炉開発が本格化する。できたものを外国に輸出する政策がとられます。中国が核武装する。その前にフランスが核武装するという動きの中で、米国に、核保有国が増えることに対する警戒感が出てくる。ジョンソン政権になってその政策が本格化する。その枠の中で1966年の原子力協定が生まれます。
 民主党のトルーマン政権時代は、原子力は国が全部抱えていて、民間企業は参入できなかった。それを共和党のアイゼンハワー大統領は、原子力法を改正して民間が参入できるようにした。同時に「アトムズ・フォー・ピース」演説をして国際的にもそれを広げていくわけです。
ところが当時、米国の電力会社にすれば原子炉はいらなかった。石炭など燃料が安いので、原子力発電をやってペイするとは到底思えなかったというのが実態です。だから、安い原子炉を作らなければならないわけです。
原子力委員長のシーボーグが本格的に原子力平和利用分野に進むのは、62年3月17日の大統領の手紙からです。米国の経済発展のために原子力が必要だ、今までの原子力の役割に新しい視点を持ち込んで展開しなさい≠ニ。
シーボーグが、62年11月に大統領宛ての報告書を出します。経済的競争力のある軽水炉の開発をする。商業化のために国が経済的な援助をする、と。
 ところが、ちょうどこの頃、初代原子力委員長だったリリエンソールが、原子炉を安易につくるなと批判します。当時、AECは提唱者であると同時に審判者だったので、規制するものがないのはおかしいと批判しています。実現しないようなものに長期の財政的援助をするのは国の税金の無駄だとも言っています。
放射線の危険性についても、「これは危ない」と指摘している。「原発というのは放射性物質を扱う。事故は起きないとエンジニアは言っているが、人間が作ったものだから間違いはありうる。だから、初めから事故が起きないとするのではなく、事故が起こった時にどうするかという思考をしなければいけない」という主張です。その危険性を批判した最初の人物でしょう。
そういう批判はあったけれども、ジョンソン大統領の下で軽水炉の開発は進んでいきます。63年12月にオイスタークリーク発電所がうまく動き出して、黒鉛炉のコールダーホール型に取って代わるようになりますが、この時も原子力委員会の安全措置諮問委員会が問題点を指摘します。米国議会は、実証炉ができたのであれば研究開発費の支出を止めるべきだということを可決します。その時の実証炉というのは、経済的な実証性のことです。
 ところが日本にくると、実証炉というのは安全性を含めて実証されたという議論になっています。安全性については原子力委員会で問題が指摘されていましたが、シーボーグは原発を売り込むためにイギリスまで出かけて講演して、これは日本にぴったりだ≠ニいう発言をし、64年の原子力平和利用国際会議でも宣伝します。
 しかし日本側の受け取り方は割と冷静でした。『原子力年艦』によると、「巨大な格納器に変わる圧力抑制型格納方法を開発し、発電所建屋の大きさを大幅に切り詰めた」という受け止めです。
そういう流れができたところで、1964年10月16日に中国が核実験を行った。米国は日本とインドの核武装を懸念し始めます。そして65年1月、米国で佐藤・ジョンソン会談が行われます。
佐藤・ジョンソン会談については非常に複雑ですが、結論は割とはっきりしています。中国の核実験の直後に佐藤栄作が首相になるわけですが、ライシャワーに日本は核武装しうる≠ニ漏らす。それで米国側は日本の核武装を阻止するための下準備を始める。
 会談の2日目に佐藤首相が記者会見で「日本は核兵器に関心がない」と発言します。それでラスク国務長官が大統領宛てに、日本は核武装をしないと言っているので、「日本は核の平和利用や宇宙開発を通じてアジアにおける科学的優位性を十分発揮できるし、米国も静かに協力することができる」と提案します。
この「静かに協力」の「静かに」は秘密裏に、内緒にということです。秘密なので、佐藤・ジョンソン会談には、宇宙開発とかは出てきません。
 なぜ秘密にするかというと、佐藤・ジョンソン会談は今は米国の「核の傘」の確約を取った会談だとされていますが、その議論を表に出すと、日本の世論が沸騰して危険だ、「爆弾だ」と言っています。そういう意味で慎重にしたいということです。
 しかし、その両面性については、いままであまり強調されてこなかった。ギルパトリック委員会自体、佐藤首相が帰国してから報告書を出します。そこでは「中共の核兵器計画はインドと日本に特別の圧力かけるであろう。両国はやがて核武装に向かうであろう」と指摘しています。世界はもはや核兵器拡散の後戻りできない地点に到達した∞日本とインドが核武装するとそれはやがて中東にも波及する≠ニも書かれています。
もう一つ、65年6月の「日本委員会報告書」というのがあります。これはトンプソン委員会が起草し、ギルパトリック委員会との合同委員会で最終的に調整、決定したものです。この中に、日本の技術の「はけ口」としての平和利用ということが書かれています。日本の原子力技術を放っておくと核武装してしまうかもしれない、そこに行かないようにするために平和利用という道を作っておけば大丈夫だろうという対応です。
それで、佐藤首相は帰国後、「非核三原則」を言います。帰って最初の所信表明演説でもそれに近い発言をしていますが、実際には1967年12月の衆院本会議で、原子力空母エンタープライズ寄港問題に関する質疑の中で表明し、次の年の衆院本会議でさらにはっきりした形で言います。NPTに入っていこうという姿勢も出てきます。
 1968年2月に日米原子力協定を調印します。68年の協定には付属文書があって、どこに使うというのは当時の原子力法との関係で書かなければいけなかったのですが、そこに福島原発や敦賀などの地名が出てきます。
 下田外務大臣の文書が残っていて、ラスク長官の署名入りであることについて「この事実は最近の日米関係にかんがみ、米政府側がわが国に対して特別の考慮を払いおることを特に示さんとの意図に基づいて行われたもの」と書いてあります。 問題は、「特別の考慮」とは何であるかということですが、それはNPTです。
68年に原子力協定ができますが、NPTに入るのは70年2月です。この2年間に何があったか。通称「カナマロ会」という、内閣調査室が組織した委員会が2つの報告書を出しています。報告書(二)の結論の前には、技術的には日本は核武装することは不可能ではないけれども、核武装することによって外交的な孤立に導かれる、と書いています。