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 ●政府への要請
 
原子力平和利用の歪んだ軌跡とその淵源
         
――アイゼンハワー米大統領の素顔と原発の危険
新原 昭治・国際問題研究者(11.10.15)


 3月11日に発生した東日本大震災による福島第1原発の重大事故は、7ヵ月を経たいまも収束への確かな見通しがたっていません。正確な情報提供、放射能の除染、災害補償等、被害住民の実情・要求とかけ離れた政府・東電の無責任な対応に、住民は不安・怒りを募らせています。国民の間に、「もう原発依存はやめるべきだ」という声が広がっているのは当然です。
 同時に、政府・電力業界は「最高の安全基準」なる新たな「安全神話」を持ち出して原発の早期再稼働を企図しており、「原発は必要」との世論が一定度の割合で踏みとどまっていることも見落とせません。
 「原発ノー」の国民的合意を広げるうえで、1953年に「平和のための原子力」演説を行ない、その後の「原子力平和利用」を主導したアイゼンハワー米大統領のそもそもの意図はどこにあったのかを振り返ることは、この問題の核心に迫る上で重要です。
 国際問題研究者の新原昭治氏がこのほど平和団体の学習会で行った講演から、日本における「原子力平和利用」の歪んだ軌跡とその淵源について論じた部分(要旨)を次に紹介します。(文責・編集部)

                           


演説「平和のための原子力」から始まった

 アイゼンハワー米大統領は1953年12月8日国連総会で「平和のための原子力」という演説をおこないました。世界的な原発推進のきっかけになったものです。「平和のための原子力」とはいうものの、その演説の4分の3は核兵器についての話で、米国が核兵器をどれほど増やしているか、核兵器の進歩がどんなにすごいかと、米国の核戦力を誇示する内容でした。
 同時に、アイゼンハワーは世界の世論が核兵器使用戦略に対し批判的になっていることを知っていたので、演説の終わりのほうで「核兵器は、核の軍事用の包装を剥ぎ取り、平和のために利用する術を知る人々に託さなければならない」と述べた上で、「平和利用」の新提案をしました。これがその後の原発推進のきっかけになりました。
 有馬哲男早稲田大学教授著『原発・正力・CIA』(新潮新書)によると、アイゼンハワー政権は原発推進に当たり日本で米情報機関が「原子力の平和利用」の「心理作戦」を1953年6月に開始しています。
 その「心理作戦」とはどういうものだったのか。
 これについて、米大統領を議長とする国家安全保障会議(NSC)の1955年3月の決定5507/2「原子力の平和利用」は、「提案された現地(日本、ドイツなど海外のこと・注)の計画が、米国にとって最大限の心理作戦上の好結果を確実にもたらすよう行動することを指示する」と強調し、とくに次のことを重視しています。
 ▽早期の原子力開発は、原子力分野で米国が指導的地位を確保する必要条件である▽核エネルギーの平和利用を推進すれば、米国は原子力の破壊的利用にだけ関心を持っているとの共産側宣伝を論駁できる▽ウラン235の製造能力を維持し、世界に原発を広げれば、原子力分野の「管制高地」を維持することができる――などがそれです。
 鋭い政略的狙いに貫かれた対外戦略として推進されたのが、「原子力の平和利用」だったことがわかります。その露骨な政治的動機にもとづく推進過程では、原発の推進にともなう潜在的な危険性の問題は無視され続けたのです。

「安全」は最初から度外視された

 これについては証拠があります。米国の「憂慮する科学者同盟」のダニエル・フォードという学者が膨大な米原子力委員会の秘密文書を開示させ、それから判明した事実を『CULT OF THE ATOM』(原子信仰)という本に書きました。米国で商業用原発が始まる前後の時期に安全問題がいかに軽視されたかを明らかにした本です。
 米国では1954年、アイゼンハワー演説に合わせた新しい原子力法が作られます。ところが新原子力法の制定経過によれば、原発の危険への防止策や対処の問題について、きちんと検討した形跡がまるでありませんでした。
 米原子力委員会の元代理人で原子力法の権威であるハロルド・グリーンは、フォードのインタビューの中で次のように語りました。
 「4000ページからなる、議会での新原子力法関連の報告・証言・論議を収めた『立法履歴書』には、これら健康上、安全上の考慮とは何かについて、実際に触れた関連箇所は1つもありませんでした。安全が問題であると、本当に考えたことのある人間が1人もいなかったのです。彼らは、それは適切にやられるという要件を書いてさえおけば、適切にやられるだろうと想定していたのです」。
 また、もともとは原子力潜水艦のために開発され、商業用原子炉に大急ぎで転用された「軽水炉」の発明者の1人であったアルヴィン・ワインバーグは、見逃せない証言をしました。商業用原子炉を作る過程で、原子力委員会承認のもとにさまざまの安全上の妥協が繰り返され、「あらゆる可能な予防措置」はとられなかったというのです。「『可能な限り安全に』ということと、『可能な限り安く上げる』ということの間で激闘が交わされた」のです。商業用原子炉の発電価格は、石炭によるそれの10倍以上もしたのです。
 アイゼンハワーは、商業用原子炉を推進するため、1954年のレーバー・デーにテレビを通じ、ペンシルバニア州シッピングポートの実験用原子炉の建設開始を全国民に知らせました。同実験炉の進展状況を収めた映画は、全国の教会、学校、会社、市民団体に配られ、10年間に4000万人が、またテレビで1億5800万人が観ました。
 しかし事故の可能性に触れたものは皆無で、ある映画でアナウンサーは、安全装置はすべての原子炉プラントに二重三重に取り付けられていて「まるで不沈船のようなもの。ぐるりには、生命救助装置が張り巡らされている」と言いました。
 このように、軍事用に開発された原子炉を、政略的に急いで商業用に転用した過程で、安全性についてはきちんとした検討をしなかったのです。米国は国策として世界中に広げていき、米国内でも石炭で作った電気の10倍もする原発による電気のコストを切り下げなければならない必要に迫られる。その無理を押し通す過程で、商業用原子炉の建設が安全を度外視して進められて行きました。

原発推進に込めた危険な狙い

 さて、アイゼンハワーの「平和のための原子力」演説にもとづく原発の国際的推進には、もう一つの狙いがありました。米国を盟主とする軍事同盟の結束に利用することであり、同時に核兵器、原発の原料であるウランなどの重要鉱石資源を押さえ直すことでした。
 この点で重大な隠された目的があったことが、米秘密文書から明らかになっています。米国は海外に核兵器を持ち込んで、核兵器の先制使用戦略を実行できるようにしようとしました。
 そのための政治的環境をつくる目的で、「原子力の平和利用」の大宣伝が利用されました。核兵器反対の世論が存在する国では「平和のための原子力」計画を表に立て、世論の切り崩しを図ったのです。
 この点で見逃せないのは、アイゼンハワー政権が第2次世界大戦後の歴代米政権の中でも、異常きわまる核軍拡を強行した政権だったという事実です。
 米国で権威あるチャック・ハンセンの『米国核兵器開発技術史』の資料に、米国の各年毎の核兵器蓄積量を核爆発力(メガトン)で表したグラフがあります。それによると、アイゼンハワー政権の最後の年の1960年が、その後の時代も含めて、史上空前の核爆発力を米国が保持した年であったことを示しています。この年の米国の核爆発力は、実に2万メガトンにも達しました。広島型原爆の爆発力に換算すると130万個超になります。後にも先にも、さすがの米国でさえ、これほどの大核軍拡をやった大統領はいません。
 アイゼンハワー政権の核戦略の特徴は、その異常な核使用政策にもありました。「原子力の平和利用」演説の40日前に米国家安全保障会議が秘密決定した「ニュールック戦略」では、核兵器について“通常兵器と同様に使える兵器”という規定が与えられました。
 のちにケネディ政権で大統領付きの国家安全保障補佐官を務めたマクジョージ・バンディがこれについて次のように回想しています。
 「『戦時においては米国は、核兵器を、その他の弾薬のように使用できるものと考える』。大統領は、この表明の重大性を十分に知ったうえで正当と認めた。1万語からなるこの声明〔「ニュールック戦略」〕に含まれたその他多くの部分とは違って、この表明は大統領自身が直接関わった議論の産物であり、この言い回しは大統領自身が求めたものであった」と。
 アイゼンハワーが核兵器の先制使用にいかにこだわったかがわかります。
 実際にアイゼンハワー政権は、しばしば核兵器使用の瀬戸際まで持ち込みました。1954年、ベトナムの独立をめざすベトミン勢力が、ベトナムの再植民地化をめざしたフランス軍を、ベトナム北西部のディエンビエンフーに追い込みましたが、この時、米政府はフランス軍への助け船として“3個の戦術核兵器を使ってやるがどうか”という話を持ち出しています。
 1955年と58年には、台湾海峡紛争が起きました。55年にはアイゼンハワーとダレスが記者会見で「戦術核兵器は使ってもなんの問題もない」と繰り返し公言しました。58年には、日本本土や沖縄その他からあらゆる核兵器部隊が台湾に集中し、沖縄には10メガトンもの水爆が持ち込まれたのでした。
 アイゼンハワー政権は核兵器を世界のどこでも使えるようにするため、海外の米軍基地国に本格的に核兵器持ち込みも始めました。
 同政権ができた1953年6月、大統領は最初の海外配備としてグアムに核兵器の常時配備をすると同時に、核兵器を積んだ2隻の空母を、1隻は日本に、もう1隻はヨーロッパに派遣することを指示しました。
 核積載空母オリスカニは1953年10月15日に横須賀に初寄港し、この時以来、核兵器を積んだ空母が日本に恒常的に寄港するようになりました。沖縄では54年以来、嘉手納基地などに核爆弾が持ち込まれ、一大核攻撃基地にされたのです。

大本に原爆投下の国際犯罪行為を覆い隠す発想

 アイゼンハワー政権は54年以来、日本本土への核兵器の常時配備も追求し始めました。しかし、ビキニ水爆実験による第五福竜丸などの被曝によって原水爆禁止の世論と運動が広がるなかで、米国の企ては大きな障害に直面します。このもとで米国の国務省と国防総省が「原子力の平和利用」宣伝をうまくやれば、核問題に対する日本国民の考え方を変えられそうだと協議し推進したことを示す米解禁文書を、私は米国立公文書館で見つけました(「しんぶん赤旗」8月5日付)。
 つまり、「原子力の平和利用」というのは、原発を推進しただけではないのです。日本その他に核兵器を持ち込み、核戦争準備を進めるうえでも大いに活用した、そのために「心理作戦」まで繰り広げたということが、肝心の問題点です。
 このように見てくると、全体に流れる一つの重要な共通点は、原子力の軍事・「平和」両面の利用に伴う危険の隠蔽が、意識的に企てられたということです。その大本にあったのは“核兵器を使ってもそれほど怖いことではない”というメッセージでした。
 広島、長崎に原爆を投下した米国自身の重大な国際的犯罪行為を覆い隠そうとする発想が、その根底にあったことがわかります。

 (日本平和委員会が2011年9月8日に開いた学習会での講演より抜粋)