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 ●シリーズ・被爆の実相
 
シリーズ「広島・長崎被爆の実相」
 第9回 ヒトラーと科学者
中嶋篤之助

 E=mc(2 )という式は、現在ではあまりにも有名で、NHK教育番組の世界史のタイトルにも登場してくるほどです。しかし、それがいつ発見され、いかなる意味をもつかを説明することは簡単ではありません。
 前回まで、核エネルギーとは原子核の関わる反応において発生するエネルギーで、それは必ず質量の生成・消滅を伴っていたことを説明してきました。キューリー夫妻によって発見された新元素ラジウムは、恒温槽の中で微弱ながらいつまでも熱を出し続け、外からの燃料の補給なしに動き続ける永久機関のように見えたのでした。これは、1905年にアインシュタインが発表した特殊相対性理論の帰結から説明できることが明らかとなりました。
 こういう次第で、本来なら特殊相対性理論の説明をすべきでしょうが、その説明は簡単ではありません。アインシュタインの相対性理論には1905年に発表された特殊相対性理論と16年に発表された一般相対性理論があります。
 ことしは1905年にアインシュタインが立て続けに発表した三つの論文──光電効果の理論、ブラウン運動の理論、特殊相対性理論という現代物理学にとって革命的な業績の100周年を記念して、「国際物理年」ということになっています。彼はこれらの業績によって一躍有名になり、1911年、大学の教職に迎えられます。14年には、マックス・プランクの熱心な勧誘に応じてカイザー・ウィルヘルム協会(KWG)の物理学部長となり、ベルリンに移住しました。
 彼は、1921年度のノーベル物理学賞を受賞しますが、その受賞対象は「光電効果の量子論的研究」についてであって、相対性理論に対してではありませんでした。しかし彼を有名にしたのは相対性理論であって、世界各地から講演や講義の依頼が殺到し、その対応に忙殺されることとなりました。
 彼は22年、山本実彦改造社社長の意を受けた石原純博士の招請で来日し、約二週間にわたって東京をはじめ各地で講演を行いました。難解な相対性理論をわかりやすく説明する講演も好評でした。その様子は岡本一平の描いた漫画・漫文などで広く伝えられ、人々に親愛感を与えました。大野陽朗氏(北大名誉教授)執筆の大日本百科全書のアインシュタインの項には、京都・知恩院のうぐいす張りの廊下を石原博士と歩くアインシュタインの漫画が採録されています。
 彼は天衣無縫というべき人柄で、形式を嫌い、枠にとらわれない自由を愛していました。日本にきたときも、人を見下ろすものだとして人力車に乗らなかったと伝えられています。

ラッセル・アインシュタイン宣言五〇周年
 また熱烈な国際平和主義者であり、1914年、彼がベルリンに移住した年は第一次世界大戦が勃発した年ですが、彼は「ヨーロッパ人への宣言」にすすんで署名し、自ら反戦・平和主義者であることを明らかにしました。彼は、戦後成立した模範的な民主主義体制と言われたワイマール体制の確固とした支持者であり、ファシズムを徹底的に憎んでいました。
 ヒトラーは、政権につく前から彼を敵視していました。KWGの総裁という資格で、プランクがヒトラーを訪問したときの記録が残されています。ヒトラーは次のように言い放ったと言います。「私にとってユダヤ人それ自体はけっして敵ではない。しかし、ユダヤ人は皆、共産主義者であり、これは私の敵である」。プランクがユダヤ人一人一人を区別すべきと意見を述べたとき、ヒトラーは猛烈に反論しました。「わが国家の政策は、科学者のためといえど、中止になったりあるいは修正されたりすることはないだろう。ユダヤ人科学者の追放が現在のドイツ科学の滅亡を意味するというのなら、我々は数年の間、科学なしでやっていこうではないか」。
 アインシュタインはドイツからの追放科学者の第一号となりました。1933年、彼はドイツの名誉市民権を剥奪され、財産も没収され、米プリンストン高等研究所に迎えられます。そして55年4月18日に大動脈瘤破裂で亡くなるまでここに止まりました。
 彼の最後の仕事はラッセルの呼びかけに応じ、「全体的破滅を避けるという目標は、他のあらゆる目標に優先されねばならない」というラッセル・アインシュタイン宣言に署名し、それを各国政府首脳に送ることでした。今年はこの宣言発表から50周年にあたります。


 (なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)