| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第7回 核分裂発見の波紋 |
| 中嶋篤之助 |
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この結果を受け取ったマイトナーは、ちょうどクリスマスの休暇でストックホルムに帰っていた甥のフリッシュと雪の中を散歩しながら議論しました。フリッシュはデンマークのボーアの研究所で働いていました。前例があろうがなかろうが、ハーンの報告はウランの原子核が分裂したのだということしかありえないと、マイトナーは結論しました。フリッシュも賛成し、もしそうなら、この分裂反応に伴って、おそらく大きなエネルギーが観測できるはずで、研究所に帰ればそれを簡単に確かめられるだろうということになりました。マイトナーとフリッシュはハーンの実験結果の解釈として、核分裂の生成を提唱する論文を書き、それは1939年2月18日に『ネイチャー』誌に発表されました。同時にハーンに実験結果を急いで発表するように勧めました。ハーンとシュトラースマンの論文は、マイトナーらの勧めに従って1939年1月6日の『デイ・ナトウアーヴィッセンシャフテン』誌に発表されました。
フリッシュはコペンハーゲンのボーアのもとに帰り、この論文の下書きを届けるとともに、核分裂の生成を確かめる実験を行いました。たまたまこの時、研究所を訪問中であったアメリカの生物学者W・A・アーノルドはウランの核が半分に割れる有様を生体の細胞が二つに割れるときの言葉で「分裂」(フィッション)と呼んではどうかと勧めたのです。
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| ■キナ臭い予感 |
ボーアは1939年1月、米国の物理学会に出席するため米国に到着していました。ボーアによってこの核分裂のニュースは出席者に伝えられ、異常な興奮を引き起こしました。そうしてこの問題の研究がただちに世界各地で始められ、再確認されたのです。12月までに核分裂に関する論文が100編以上も発表されたのです。しかしこのブームには、核分裂の用途についてのキナ臭い予感がつきまとっていたのです。
ローマから亡命してきたばかりのエンリコ・フェルミはニューヨークでボーアからこの話を聞きました。ほぼ同じ頃、フレデリック・ジョリオはパリでハーンらの論文を読んでいました。ソ連の物理学者は、雑誌が届いた時に核分裂発見を知ったのですが、その反応は西側でみられたのと同じでした。のちにソ連の原爆研究で主要な役割を果たすことになるハリトーンやフローピン(ウランの自発核分裂の発見者)は、核分裂のいくつかの未知のパターンを発見しましたが、超ウラン元素の同定には成功しませんでした。
クルチャトフらが最初に取り組んだのは分裂の際に二次中性子が発生するかどうか、放出されるとすればそれは何個かという問題でした。彼らは4月のセミナーで報告を行ったのですが、しかしその時には、ジョリオの共同研究者であるハルバーンとコバルスキィーが論文を発表しており、4月22日には一回の分裂で放出される中性子は平均3.5個であると報告していました。
ウランのような重い核がより軽い核に転換されると、質量欠損の変化によってエネルギーが放出されます。このことはすでにアストンによって証明されていたことです。まもなくウランの核分裂が放出するエネルギーは当時知られていた他の核反応の10倍くらいのものであることが判明しました。こうしてこの核分裂という事実は、世界中の科学者の知るところとなり、わが国でも、例えば朝永博士は日記に「原子核が分裂するとは、とんでもないことが起きたものだ」と記しています。
核分裂をアメリカに伝えたボーアは、ハーンらの遅い中性子で分裂を起こしたのは、ウラン原子の大部分を占めるウラン238ではなく、わずか0.7%を占めるウラン235であろうと予測しました。また核分裂に伴って、複数の中性子が生まれるだろうとも予測しました(J・A・ホイーラーとの共著論文で)。とくに後者の予測は重要で、核分裂連鎖反応の可能性を予測させるものでした。
この論文は1939年9月1日に発表されましたが、この日こそはドイツ軍がポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦の欧州戦争が勃発した日でした。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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