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 ●シリーズ・被爆の実相
 
シリーズ「広島・長崎被爆の実相」
 第4回 核エネルギーとはB
中嶋篤之助

中性子の発見
 ラザフォードによって原子は原子核とそれを取り囲む電子から成り立っていることが明らかとなりました。原子核の大きさは原子全体の大きさの一万分の一から一〇万分の一くらいと推定されました。いま両翼100メートルくらいの野球場を考えるとします。それが原子の大きさだとしますと、原子核はホームプレート上に置いた数ミリの粒子が原子核だということになります。しかし原子全体は電気的に中性ですから、その正電荷はすべて原子核上にあります。歴史的にはボーアによって外側にある電子の存在状態、言い換えればエネルギー状態を明らかにする研究が進められ、それによって原子の化学的性質や原子の出すスペクトルの性質などが解明されました。これは近代物理学の巨大な成果の一部でありますが、ここでは省略します。ただしメンデレーエフによって発見された元素の周期律の意味するところが完全に解明されたことだけを挙げておきましょう。
 原子核の構造の研究が同時に進められたのですが、挙げておかなければならない重要な成果は、J・J・トムソンとその弟子であるアストンによる質量分析器の開発とそれを用いての同位元素の発見(ネオン)と、その後の質量欠損の測定です。これについては改めて取り上げます。
 1932年に中性子がチャドウィックによって発見されました。じつは原子核内で電子と陽子が相互の引力であたかも一体の粒子であるかのように振る舞うとすると、1920年代に原子核の構造として考えられていた電子・陽子説の矛盾を解決できるということを最初に指摘したのはラザフォードでした。1921年には米国のハーキンズがその名称として中性子という言葉を使っていました。しかし肝心の中性子を確認することはなかなかできませんでした。それは中性子が電離作用がなかったためです。1930年にドイツのボーテとベッカーは軽い元素であるベリリウムにα粒子の衝撃実験を行いました。普通は陽子がはじき出されてくるのですが、陽子は姿を現しませんでした。しかし何らかの放射線らしい作用があり、衝撃をやめると、その効果は止まったのです。彼らはこの放射線の通路に物体を置いてみました。するとそれは相当な貫通力を示し、数センチメートルの厚さの鉛すら通り抜けたのです。それで彼らはγ線が発生したのだと判断し、そのように報告しました。1932年、ジョリオ・キューリー夫妻はこのボーテとベッカーの実験を追試したのですが、結果は同じでした。しかし彼らは通路にパラフィンを置いてみたところ、驚いたことに陽子がパラフィンから飛び出してきたのです。γ線がこんな性質を持っているという報告は、それまでありませんでした。さしものキューリー夫妻もこの放射線が何物かを決定できなかったのです。彼らはγ線の新しい性質を発見したとして報告を行ったのでした。

チャドウィック
 しかしジェームス・チャドウィックはそれに同意せず、質量がほとんど無視できるγ線には原子中の陽子をはじき出すだけの運動量はないはずだとの指摘を行いました。電子ですらそうするには軽すぎるのです(ピンポン球を野球のボールにぶつけて、それを舞い上がらせ得るかどうかを考えてみてください)。原子から陽子をはじき出しうる放射線は、それ自身がかなりの質量を持っていなければなりません。こう考えれば、ボーテとベッカーが最初に発見した粒子こそ、長らく探し求めていた陽子・電子結合体そのものだったのです。チャドウィックはハーキンズに従って、それを中性子と呼び、彼の考えを公表しました。そこで彼が中性子の発見者としての栄誉を受けることになったのです。彼は実験により、中性子の質量の決定を行い、中性子が陽子より重いことを明らかにしました(1934年)。最新の実験値によると、陽子の質量の一・〇〇七八二五に対して、中性子のそれは一・〇〇八六六五と少しだけ重くなっています。また核から離れた中性子は電子を出して崩壊し、陽子に変わるのですが、その崩壊の半減期は約12分です。核エネルギー利用の主役を務める中性子は、このようにして歴史に登場しました。

 (なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)