| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第32回 俊鶻丸の航海 |
| 中嶋篤之助 |
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1954年の米ビキニ水爆実験後、水産庁は厚生省、運輸省のほかに日本水産学会と日本海洋学会に協力を求めて、ビキニ海域調査の計画をたてることになりました。第1回総合協議会が開かれたのは1954年4月14日でした。
調査船には下関の農林省水産講習所所属の練習船・俊鶻丸(588トン)を起用することになりました。調査団長には高知市の南海区水産研究所の矢部博氏が選ばれました。このあと、団長以下22人の団員が、各方面の専門の少壮科学者から選ばれました。うち一人は医師でした。このほか記者団、漁夫、船員など合計74人が俊鶻丸に乗り込みました。
船は5月15日に東京港を出発しました。調査の項目は、魚類、プランクトン、海水、空気の放射能のほか、一般の海洋と気象の観測でした。海洋と気象の観測では、気流と海流の測定が重視されました。そのためにパイロット・バルーンや電磁海流計、エクマン・メルツ流速計などが船に持ち込まれました。放射能測定器はまだ日本のどこの研究室でも珍しい頃でした。いまではどこにでもあるシンチレーション計数器は、科学研究所に1台あるきりでした。その虎の子のシンチレーション計数器が船に積み込まれました。ガイガー計数器4台とサーベイメーター8台がかき集められました。ポケット線量計は20本ありました。全員には行きわたらず、はえなわを引き上げる漁艇に乗る人と9つの船室に一つずつ配布されました。居室を冷房・換気する装置が備えられましたが、予算不足から室を気密にすることはできませんでした。「俊鶻丸には日本科学の粋を集めた器具類を満載する」(東京新聞)と報道されましたが、実際はきわめて貧弱な装備でした。
また、その頃は、海水の放射能をはかるための測定方法がありません。そのため、気象研究所から参加した杉浦博士らは、東大理学部の木村研究所の協力を得て、ビキニ灰を使って実験を繰り返し、海水から核分裂生成物を分離する方法を考え出しました。この方法はその後、「鉄・バリウム法」として水の放射能測定法となりました。
予算も水産庁は3000万円を要求しましたが、大蔵省は1400万円に削減し、危険手当も削りました。
米政府は5月13日、この年の水爆実験が終わったことを発表しましたが、危険水域はまだ解除されていませんでした。
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| ■俊鶻丸のコース |
米側による危険水域の解除の関係で、俊鶻丸の予定コースは大幅に変更されました。まずウェーキ島に立ち寄り、そこから南下、赤道を越えて逆に北上し、爆心地付近を通ってウェーキ島に戻るコースになりました。ウェーキ島への再度の立ち寄りは、調査団の考えではなく米政府の考えでした。給水その他のため、日本側はグアム、サイパン、ポナペ、トラックの島々のどこかに自由に寄港したいと申し出ていたのですが、米政府はなぜかウェーク島への寄港しか許可しなかったのです。
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| ■海水の放射能汚染 |
海水の放射能について、米原子力委員会のストローズ委員長は、その存在を強く否定していました。彼は「実験場のごく近くを除いては、ビキニ海域には放射能はない」と言い、「海水の放射能は、あったとしてもロサンゼルス市の水道水のそれくらいのものだ」とまで言ったのです。しかし現実はそうではありませんでした。
俊鶻丸は5月28日にウェーキ島を出発し、旧危険海域の外縁に沿う形で南東に向かいました。2日目の30日の朝、海水中に1リットル当たり150cpmの放射能が検出されました。プランクトンにも生重量1グラム当たり数千〜1万cpmの放射能がありました。船体も漁網も汚染されました。その夜は、矢部団長を囲んで夜遅くまで今後の方針について議論が交わされました。
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| ■増える放射能 |
翌朝、第6回目の観測を行うと、海水もプランクトンも前日よりさらに汚染の度を加えていました。そのあたりには北赤道海流が流れていて、海水は東から西へ流れているはずでした。そこはビキニ環礁から上流にあたるところで、しかも1000キロも東に離れています。信じがたいことながら、その海域で海水もプランクトンも汚染されていたのです。
調査団員がショックを受けたのは当然でした。彼らは水爆実験の「怪物的」な様相を、次第に自らの目や耳で認識し始めたのです。計器が放射能で汚染し、観測を続けられなくなる心配もありました。
同乗した記者の一人は、この時の模様をこう伝えました。
「このあたり、見た目には波がしらが白く砕けるおだやかな南の海である。はてしなく広がる透明な海。この海水に450cpm/リットルの放射能があると知って調査団の驚きは大きかった」(読売新聞)。
【参考文献】三宅泰雄『死の灰と闘う科学者』(岩波新書1972年)
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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