| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第28回 戦後の米大核軍拡 |
| 中嶋篤之助 |
|
| ■アメリカの戦時努力──20億ドルを消費した原子力産業 |
マンハッタン計画でアメリカは、20億ドルを費やして3発の原子爆弾を作りました。1発あたり6億ドルということになります。そして「原子炉の基本問題」と「核燃料物質の生産問題」を解決したわけです。しかし、動力利用の実用化とその経済性の達成までにはなお多くの年月を要する開発努力が必要でした。換言すれば、「平和利用」のためには、核燃料物質の生産施設が早くできすぎており、能力過剰だったのです。したがって膨大な原爆産業施設を遊ばせないためには、原爆を作る以外に方法がなく、これが結局、核軍備という主張が出てくる物質的根拠となるのです。
|
| ■アメリカの原子力に関する戦後政策 |
トルーマン米大統領は1945年、ポツダム会談から帰国の途上で原爆投下の事実を公表しました。このなかで戦後の原子力問題について、要旨次のように述べています。
(1)原子力は将来、電力を供給するであろうが、商業的に競争できるまでには長期にわたる強力な研究が必要である。
(2)世界から科学知識を隔離することは、アメリカの習慣でも政策でもなかったが、現在の情勢のもとでは、生産の技術的工程あるいは軍事利用のすべてを洩らすことは、アメリカと世界を突然の破壊から防衛する方法を吟味しなければ、しない。
(3)アメリカにおける原子力の生産と利用を管理する適当な委員会の設置を、議会が考慮するよう提案する。
(4)さらに考慮を重ね、原子力が世界平和を維持する力となりうるような方法を、議会に勧告するつもりだ。
この言明から、結局、国際協力への消極性あるいは米国の原爆独占政策と原爆情報の機密化という方針が出てきます。トルーマンは当時のソ連の行動に対し、無法な世界≠ニ非難しています。
この年8月2日に公表されたスマイス報告は、戦時中機密に覆われてきた開発の経過を、国民と議会に報告するために作成されたものでした。その序文で開発の責任者であったグローブス将軍は、次のように述べています。
「今日、国家機密の要請に背くことなく公開できる科学的知識は、すべて本書に述べられている。本計画に直接間接に参与した個人または組織に対して、本書の内容以外の情報を許可なくして洩らし、あるいはこれを入手したものは、機密保護法によって厳重に処罰される」。
スマイス報告は、その内容が科学的知識に限られていたとはいえ、かなり詳細なもので、のちに「重大な安全保障違反」という非難を受けたほどでしたが、軍の意図に即して言えば、厳重な機密統制のための公開にほかならなかったのです。
アメリカが機密化=独占の態度を固めたことにより、原爆の国際管理への見通しは暗くなりました。また、各国がそれぞれ原子力の研究開発体制を固めたために、国際管理問題の討議は行き詰まる結果となりました。米国は結局、46年、原子力法と呼ばれる「マクマホン法」を成立させ、TVA(テネシー渓谷開発公社)総裁であったリリエンソールを委員長とする原子力委員会が発足し、47年1月1日、マンハッタン工兵管区から全施設を引き継ぎ、原爆のストックと研究施設を含む原爆産業の全体系を傘下におさめて、新たな軍拡計画の推進に取り組むこととなったのです。
|
| ■核軍拡の3段階 |
原水爆生産の拡大は、ほぼ3つの大きな波を描いて展開されました。第1の波は1947年、第2の波は50年、第3の波は52年にそれぞれ開始され、主要施設の建設を終わったのが56年、核分裂物質生産がピークに達したのは60年前後でした。しかし、最終の第3波が52年に始まり、それ以後は規模の拡大がなかった点から言えば、この核軍拡の実質的な期間は47〜52年の6年間ということになり、この時期は東西冷戦がもっとも厳しい様相を示した時期と一致しており、原水爆産業の拡大は冷戦の経済的側面そのものであったことを示しています。また、国際情勢の変化によって、この軍拡に何度も拍車がかかり、その頂点は、53会計年度の予算額41億ドルに象徴されています。
▽「第1段階」 47〜51年度。この段階では広島・長崎原爆の改良、その破壊力の増大がとりあえずの目標でした。そのため、開発の基礎条件の整備がはかられ、核実験場や膨大な研究開発施設の建設が進められました。それと並行して、ハンフォードのプルトニウム生産施設、オークリッジのウラン濃縮工場の改修と第1次拡張が行われました。49年からは原子力潜水艦の開発がスタートしました。
▽「第2段階」 50年1月、トルーマン大統領の水爆開発命令に始まる時期で、54年の水爆完成に至る時期です。この時期には、水爆の開発を中心に、「あらゆる形態の核兵器の開発開発促進」が目標にされ、サバンナリバーの水爆開発センター、パデューカの新濃縮工場が建設されたほか、オークリッジの第2次拡張が行われました。潜水艦用推進炉の開発が成功し、原子力潜水艦の建造が進むとともに、航空機、大型艦船用の推進炉の開発も開始されました。
▽「第3段階」 第2段階のすぐあとに続いた最後の大軍拡で、52〜56年にわたりました。この時期の特徴は、開発の重点が戦術核兵器に移ったことで、多種多様な小型核兵器─核兵器家族(Nuclear
family of weapons)による全軍核武装が目標に掲げられました。そのため、核物質の大増産が計画され、ハンフォード、サバンナリバーの拡張とともに、新濃縮基地ポーツマスが建設されました。また55年には第1号原潜ノーチラスが就航し、以後ぞくぞくと原潜が完成していったのです。
|
|
(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
|
| |