| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第24回 戦後の大核軍拡A |
| 中嶋篤之助 |
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| ■失われた核兵器完全廃絶のチャンス |
文民制の初代原子力委員長であったリリエンソールが引退して80歳に達してから書いた著書の冒頭で、彼が47年4月3日にトルーマンに会い、「アメリカの原爆の在庫はゼロである」ことを報告したと述べています。ロスアラモスにも使用できる原爆は1つもなく、その後の数ヵ月間も手に入らなかったと言います。そしてその当時、大統領を含むすべての人が「米国は原子爆弾をいくつか持っている」と考えていましたし、チャーチルは「無防備なヨーロッパにソ連が侵入することを防いだのは、我々の原爆の在庫≠ナある」と主張していました。
一方、コクラン、アーキンらの『核兵器データブック』には、45年2発、46年9発、47年13発、48年50発という数字があげられています。しかし、これらの数字は82年に配布された国務省の覚え書きからとられたものです。したがって筆者はリリエンソールの言うことは真実であると思います。もっとも、46年にはクロスロード作戦と呼ばれる「公開原爆実験」がビキニ海域で行われ、旧日本軍の艦艇などが標的にされました。しかし爆発させた原爆は2発であったと記録されています。
この期間はまさに国連原子力委員会の場で、原子力の国際管理のあり方をめぐって米ソ間で火花を散らしていた時期で、どちらにせよ原子兵器の完全廃絶は容易だったでしょう。この時期は戦時体制から平時(冷戦時?)への移行期であり、ロスアラモスでは戦時中に3000人を超えていた科学者・技術者はどんどん大学やもとの職場に戻ってしまい、1000になっていたと言います。
この時期の科学者の運動の1つに、アインシュタインが議長となった「原子科学者緊急委員会」がありますが、その運動の詳細はよくわかりません。しかし、科学者のめざしたところは軍管理から文民管理への移行であったようです。そして核エネルギーの平和利用の可能性を追求することでしたが、結果として文民管理の原子力委員会は成立したものの、それは核分裂物質生産のための「造兵機関」となってしまうのです。
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| ■軍産複合体の形成に果たした核兵器産業の役割 |
米国の核兵器産業の中核をなす原子力委員会の管轄する諸施設は、GOCO(Government Owned Contractor-Operated)と呼ばれるシステムで運営されています。サバンナリバー工場は大化学工業会社あるデュポンが委託されて運営しており、原潜開発の中心研究開発機関であるベッチス研究所は大電気独占企業であるウェスチングハウス社が運営していたという例のように、大独占体はマンハッタン計画の時代から国家と癒着していました。
戦後制定されたマクマホン法は一部少数の独占体だけでなく、より多くの大企業が核兵器産業へ参加する道を開くことが目的でした。後述するように、戦後一貫して続けられた膨大な軍需発注は、航空機産業、造船業、化学産業などの大企業を肥大化させ、有名なアイゼンハウアー大統領の離任演説での、「産業複合体」の形成が「自由な企業」というアメリカ資本主義の民主主義的伝統に脅威となっていることが指摘されることになりますが、核兵器産業こそは、この「産軍複合体」の嚆矢(こうし)をなすものだったのです。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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