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 ●シリーズ・被爆の実相
 
シリーズ「広島・長崎被爆の実相」
 第23回 戦後の大核軍拡@
中嶋篤之助

 「戦争には勝ったが平和はまだだ」1945年12月、アインシュタインはこう語りました(「ニューヨーク・タイムズ」12月11日付)。「われらの一生のうちに2度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い…」から始まる国際連合憲章は45年6月26日にサンフランシスコで署名されましたが、その直後の8月に広島、長崎に原子爆弾が投下されてしまいました。この行為は国連憲章の精神を真っ向から踏みにじり、せっかく第2次大戦後の平和維持機構として発足した国連の運営を困難に陥れる結果となりました。46年に開催された国連創立総会がその第1号決議として「原子兵器の完全廃絶」を採択したのは当然でしたが、それは50年後の今日に至るまで実現していません。「平和はまだ」で、それは核兵器がこの地球上から一掃されるまではこないでしょう。そして、国連が真の平和維持機構として再建されるためには、自らが発足にあたって採択した第1号決議を実行しなければならないはずです。
 戦時中のマンハッタン計画で米国は、2個のプルトニウム爆弾と1個のウラニウム爆弾を作り上げ、最初の実験をニューメキシコ州アラモゴルド実験場で行いました(45年7月16日)。残りの2発が8月6日広島に、9日長崎にと急いで投下されたのです。ポツダム会談は原爆の完成に合わせて日程がずらされ、7月15日から開かれ、会談中にトルーマンからTNT火薬約2万トン以上の威力を持つ新兵器の開発に成功したことがスターリンに告げられました。ソ連のヤルタ協定による対日参戦予定日は8月8日でした。広島・長崎への原爆投下はまさに戦後冷戦の開始を告げるのろしでした。
 米国の核軍拡の本格的開始は、47年1月、リリエンソールを初代委員長とする原子力委員会が発足したときからです。原水爆生産の拡大はほぼ3つの大きな波を描いて展開されます。
 第1波は、47〜51年で、ハンフォードのPu生産施設、オークリッジのU濃縮工場の改修と拡張が行われましたが、この段階の目標は原爆の改良と破壊力の増大でした。49年からは原子力潜水艦の開発もスタートしています。
 第2波は、50年1月のトルーマン大統領の水爆開発命令に始まり、54年の水爆完成に至る時期です。あらゆる形態の核兵器の開発促進を目標に、バデューカの新濃縮工場の建設、オークリッジの第2次拡張が行われました。
 第3波は、第2波のすぐあとに続いた大軍拡で、52年から56年にわたっています。この時期には、開発の重点は戦術核兵器に移り、多種多様な小型核兵器(核兵器ファミリー)による全軍核武装化が目標となりました。このため、核物質の大増産が計画され、ハンフォードの拡張、ポーツマス新濃縮工場の建設がすすめられました。55年には第1号原潜ノーチラスが就航しました。
 この期間に米国が注ぎ込んだ費用は138億ドルにのぼり、マンハッタン計画の19億ドルの7倍という膨大なものでした。56年末の雇用人員は9万7000人に達しました。57年の核弾頭保有数は5450発となり、ソ連の100倍以上でした。その後も弾頭は増え続け、67年に3万2000発というピークに達します。
 現在のエネルギー省の管轄下にある核兵器開発に関係する研究所、核物質生産諸施設の基本的枠組みはこの時期にすでにできあがったと言えるでしょう。Pu生産用原子炉はAからNまで14基が作られましたが、この時期以後に作られたのはN炉だけです。ちなみに故意か偶然かはわかりませんが、旧ソ連も14基のPu生産用原子炉を作っています。

■失われた核兵器完全廃絶のチャンス
 文民制の初代原子力委員長であったリリエンソールが引退して80歳に達してから書いた著書の冒頭で、彼が47年4月3日にトルーマンに会い、「アメリカの原爆の在庫はゼロである」ことを報告したと述べています。ロスアラモスにも使用できる原爆は1つもなく、その後の数ヵ月間も手に入らなかったと言います。そしてその当時、大統領を含むすべての人が「米国は原子爆弾をいくつか持っている」と考えていましたし、チャーチルは「無防備なヨーロッパにソ連が侵入することを防いだのは、我々の原爆の在庫≠ナある」と主張していました。
 一方、コクラン、アーキンらの『核兵器データブック』には、45年2発、46年9発、47年13発、48年50発という数字があげられています。しかし、これらの数字は82年に配布された国務省の覚え書きからとられたものです。したがって筆者はリリエンソールの言うことは真実であると思います。もっとも、46年にはクロスロード作戦と呼ばれる「公開原爆実験」がビキニ海域で行われ、旧日本軍の艦艇などが標的にされました。しかし爆発させた原爆は2発であったと記録されています。
 この期間はまさに国連原子力委員会の場で、原子力の国際管理のあり方をめぐって米ソ間で火花を散らしていた時期で、どちらにせよ原子兵器の完全廃絶は容易だったでしょう。この時期は戦時体制から平時(冷戦時?)への移行期であり、ロスアラモスでは戦時中に3000人を超えていた科学者・技術者はどんどん大学やもとの職場に戻ってしまい、1000になっていたと言います。
 この時期の科学者の運動の1つに、アインシュタインが議長となった「原子科学者緊急委員会」がありますが、その運動の詳細はよくわかりません。しかし、科学者のめざしたところは軍管理から文民管理への移行であったようです。そして核エネルギーの平和利用の可能性を追求することでしたが、結果として文民管理の原子力委員会は成立したものの、それは核分裂物質生産のための「造兵機関」となってしまうのです。


 (なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)