| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第22回 広島・長崎、ソ連参戦そして敗戦 |
| 中嶋篤之助 |
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米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」で運ばれたウラン原爆「リトルボーイ」は、1945年8月6日午前8時16分、広島上空で炸裂しました。B29「ボックスカー」に搭載されたプルトニウム爆弾「ファットマン」は、8月9日午前11時3分、長崎上空で炸裂しました。広島原爆の爆発力はTNT15キロトン、長崎原爆の爆発力は同21キロトンであったと推定されています。45年末までの死者数は広島14万人、長崎8万人、現在までの原爆死者総数は30万人と推定されています。
広島への原爆投下に対するソ連の公式反応は黙殺でした。「イズベスチャ」と「プラウダ」は、TNT20キロトン以上の破壊力をもつ原子爆弾が広島に投下されたというトルーマン声明を要約した短いタス発表を掲載しました。しかし、広島はソ連の新聞報道よりもっと大きな影響をモスクワに与えたのです。「サンデー・タイムズ」のモスクワ特派員だったアレクサンダー・ワースは次のように報道しています。
「広島についてのニュースはすべての人を意気消沈させる効果をあげた。その日、私が話し掛けたロシア人のなかの一部のペシミストは、ロシアが絶体絶命の苦闘のなかでドイツから勝ち取った勝利はいまや『徒労も同然』だと陰鬱に語った」。
8月7日モスクワ標準時午後4時30分、スターリンとアントーノフ総参謀長は、現地時間で8月9日未明に、満州の日本軍を攻撃すべしとの赤軍への命令にサインしました。中国との交渉はまだ終わっていませんでしたが、日本の降伏に備えて参戦することが、ソ連にとって緊急に必要であったのです。
翌8月8日午後5時、モーロトフは日本大使をクレムリンに招きました。大使は近衛公のモスクワ訪問受け入れ要請への回答を期待して出向きました。しかし、モーロトフは、ソ連は8月9日以降、日本との戦争状態に入ったとみなす旨を通告しました。
この会見からしばらくたった8月9日午前0時10分(モスクワでは8月8日午後6時10分)、兵力150万以上、火砲と迫撃砲2万6000門、戦車と自走砲5500台,第一線航空機3900機を擁する赤軍が、在満日本軍に対する攻撃を開始しました。赤軍は奇襲に成功し、いくつかの方向に急進撃しました。
最精鋭の部隊と装備を他の戦域に転用されていた関東軍は、ソ連の諜報機関が予想していたよりも弱体で、赤軍に対抗できませんでした。
8月8日夜、スターリンとモーロトフは、エイベレル・ハリマン米大使と米大使館のジョージ・ケナン参事官(注)をクレムリンに招きました。スターリンは両人に、ソ連軍がたったいま、満州の国境を越え、急速に進撃中であると告げ、予想よりずっと順調にことが進んでいると語りました。
原爆は日本にどんな影響を与えたと思うかとハリマンが尋ねると、スターリンは「日本人はいま、現内閣を降伏に踏み切ることのできる内閣に替える口実を探しているところだと思う。原爆はその口実を与えるだろう」と答えました。スターリンは日本が戦争終結の道を模索していることをよく知っていたので、広島への原爆投下が急速な降伏をもたらすことを心配していたのかもしれません。
原爆投下が、8月9日攻撃開始という彼の決断を促進したように思われます。
日本の降伏決断にいたる経緯を考察したロバート・ビュトウは、8月9日のソ連参戦の効果は、それが広島壊滅の直後だったので、ますます圧倒的なものになったと指摘しています。
──身辺に危害が及ぶ恐れが相変わらず残っていたにもかかわらず、日本の和平論者は勇を奮って行動する決意を固めた。要するに彼らは原爆とソ連参戦を、単に降伏を迫る絶対的要請であるのみならず、一億玉砕論に対抗して流れを変え、政府を揺さぶって、長らく政府を束縛してきた軍部の抑圧のくびきから脱出させる絶好のチャンスとも見たのである──。
日本構内の和平論者は、いまや赤軍が急進撃しているという理由からだけでなく、終戦工作にソ連の調停を利用しようとの期待がソ連侵攻によって潰え去ったという理由からも、いっそう大胆に行動せざるをえなくなりました。
8月10日早暁、天皇は前例を破って和平派に与し、天皇の役割が維持されるというたった一つの条件のもとに、ポツダム宣言を受諾する意向を表明しました。この決定は連合国に通告されました。天皇を連合国最高司令官に従属させることに固執した連合国の回答は、東京での議論を再燃させたが、最終的には8月14日、天皇が連合国の回答をのむことを決定しました。8月16日、大本営は日本軍隊に戦闘行動の即時停止を命じたのです。
公式の降伏文書への調印は、9月2日、米戦艦ミズーリ号の艦上で行われました。
(注)のちにソ連封じ込め政策の立案で有名となる。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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