| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第21回 ポツダム会談と原爆 |
| 中嶋篤之助 |
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トリニティ実験の日程は、第二次大戦の戦後処理を討議するために米英ソ3国の首脳が7月17日から8月2日までドイツ・ポツダムのチェチリン宮殿で行ったポツダム会談に間に合うよう設定されたものでした。主な出席者は、米国がトルーマン大統領とバーンズ国務長官、英国がチャーチル首相とイーデン外相、ソ連がスターリン首相とモロトフ外相でした(英国は途中で、総選挙の結果、アトリー首相とベヴァン外相に交代)。
トリニティ実験成功の電報は、トルーマン大統領に随行していたスチムソン陸軍長官に送られ、その5日後、かれはグローブズ将軍から実験に立ち合った人々が味わった緊張感と安堵感、そして何よりも恐怖感を伝える詳細な報告を受け取りました。スチムソンがそれをトルーマンに読み聞かせると、トルーマンは有頂天になりました。トルーマンは「これに大いに勇気づけられ、おかげで自分はまったく新しい自信を得た」と語ったと、スチムソンは日記に書いています。
翌朝、スチムソンはこの報告をチャーチルのところに持っていきました。チャーチルはそれを読んで、「最後の審判の到来だ」と感嘆しました。「単なる可能性としての原爆は、あやふやな一縷の希望にしか見えなかったが、巨大な現実としての原爆となると話はまったく別だ」とスチムソンは実感しました。
トルーマンは原爆についてスターリンに知らせることにしました。7月24日の全体会議のあとで、会議室から出て行こうとしていたスターリンに近寄り、「我々は前代未聞の破壊力を持つ爆弾を保有している」と、原子爆弾とは言わずにさりげなく告げました。トルーマンの回想によると、「(スターリンは)それはうれしいニュースだと言い、〈日本に対してそれを有効に使う〉ことを希望すると述べた」と言います。しかし、トルーマンのこの記述は正確ではなかったようです。チャーチルとともに数フィート離れたところで注視していたイーデン外相の回想録によれば、スターリンはうなずいて「ありがとう」と言っただけで、それ以上のコメントはしなかったようです。トルーマンの言葉を通訳したスターリン付きの通訳パーブロフは、イーデンの記述の通りだが、ただしスターリンは軽くうなずいただけで、「ありがとう」とは言わなかったと回想しています。
トルーマンとチャーチルは、トルーマンが言ったのは原爆のことだとスターリンは理解できなかったに違いない、と信じていました。しかし、それは間違っていたようです。スターリンは、マンハッタン計画について、両人が想像していた以上に知っていたし、実験が7月10日に予定されていたことも、知っていたと思われます。
ジューコフ元帥は回想録にこう書いています。「全体会議から宿舎に戻ると、スターリンは私のいる前でモロトフにトルーマンとのやりとりについて告げた。『連中は駆け引きをやっているのですよ』とモロトフは言った。スターリンは笑って答えた。『やるならやらせておけばよい。こちらの仕事を急ぐよう、今日にでもクルチャートフと話し合わずばなるまい』。原爆開発のことを言っているのだな、と私は気づいた」。トルーマンの言ったのは原爆のことだと、スターリンは確かに知っていたと思われます。
それよりもトルーマン発言の意味をスターリンがどう理解していたかが問題です。ここには二つの可能性があります。一つは、原爆をさほど重要視してはいなかったという可能性です。もう一つは、いまや原爆が国際関係の重要なファクターになったという可能性です。どちらにせよ、彼の反応は同じだったでしょう。ソ連の立ち後れを認めて弱みを見せるのを恐れて、強いて無関心を装う演技だったと、ジューコフやモロトフは考えたようですが、それを裏付ける当時の文献はありません。
スターリンは、戦時諜報によって原爆の戦略的重要性を把握できなかったのであるから、米国の原爆がソ連の政策に与えた衝撃は、ヒロシマ以後にならなければ表面には表れてこないのです。
スターリンは、ヤルタ会談での密約にもとづく赤軍の参戦以前に戦争が終わってしまうことを恐れていましたし、米国はもはやソ連の参戦を必要としていませんでした。このせめぎ合いのなかで、8月6日、広島に原爆が投下されました。8月8日夜、スターリンとモロトフは、ハリマン特使と米大使館のジョージ・ケナン参事官(のちにソ連封じ込め政策で有名となる)をクレムリンに招き、ソ連軍が満州の国境を越え、急速に進撃中であることを告げたのです。
8月20日、ソ連の国家防衛委員会は原子爆弾特別委員会を設置、べーリアがその議長となりました。こうしてソ連は、戦争で破壊され疲弊した経済にもかかわらず、全力を集中して原爆の開発に突進するのです。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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