| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第18回 1944年夏の危機A |
| 中嶋篤之助 |
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1944年7月17日、シカゴで重要な会議が開かれました。出席者はコナント、オッペンハイマー、コンプトン、フェルミ、グローブス、ニコルズなどでした。この会議を機に、オッペンハイマーは、ハンフォードの原子炉で生成される高い中性子バックグラウンドを持ったPuをそのまま使用する爆縮装置の開発を決意します。7月20日、彼はPuのガン・プログラムと高度化学純化プログラムをただちに停止し、「すべての可能な優先権が爆縮プログラムに与えられるべきである」と布告しました。これは乾坤一(けんこんいっ)擲(てき)の賭けでした。なぜなら当時、爆縮法の実現には極めて悲観的な見通ししかなかったからです。
1944年夏の危機≠フ技術面での内容は、@砲撃方式によるPu原爆は不可能A爆縮方式によるPu原爆の可能性の保証なしBオークリッジのU235の生産速度は1945年夏に砲撃方式のウラン原爆のほぼ一個分達成の見込み、というものでした。
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| ノイマンへの協力要請 |
オッペンハイマーは1943年7月27日付でJ・フォン・ノイマンに手紙を送り、爆縮法についての助力を懇請しています。ノイマンは彼の招きに応じ、1943年9月20日から10月4日までの半月間、ロスアラモスに滞在して爆縮法開発に強い刺激を与えました。ノイマンは今日ではノイマン型コンピュータの開発者として世界中に知られ、20世紀最大の数学者と目されています。当時は爆発で生じる衝撃波の数学的取り扱いの専門家として米海軍に重んじられていました。
図はノイマンの爆縮法設計を示しています。中空金属球とタンパーを大量の高性能爆薬で包み、それが生じる超高圧で金属球を押しつぶし、その密度を大きくして超臨界状態を実現することを提案しました。つまり、これまで必要とされてきた量より少ない核物質で原爆ができることになり、原理的には、爆縮方式が砲撃方式よりはるかに優れた設計として浮上したわけです。テラーもベーテも、理論家としてにわかに爆縮法に強い興味を持ちはじめたのです。
ノイマンとテラーはどちらもハンガリー出身で、少年時代から旧知の仲でした。1944年1月、ベーテを長とする理論部門内にテラーをリーダーとする爆縮法の理論研究グループが生まれ、爆薬の爆縮圧力が数百万気圧に達することが計算によって算定されました。そのため、Puの密度を増大させて臨界量を小さくすることが確実視されるようになりました。それと同時にこの超高圧下で流体状態となったタンパーとPuコア(芯)の状態変化を理論的に計算するためには、複雑な流体力学的方程式を良い近似で解く必要が生じました。
この難問の前で、数学があまり得意でないテラーはたじろぐのですが、ちょうどその頃ロスアラモスを訪れていたR・パイエルスがその有効な解法を思いつき、それが、できたばかりのカード式IBM計算機を使って実行に移されました。こうして、爆薬の爆縮圧でタンパーとPuコアが圧縮され、コアが超臨界状態となって核爆発をおこし、タンパーを押し広げる全過程を、初めて定量的に計算でたどることができました。こうして爆縮方式の可能性が理論的に確かめられたと思ったのです。
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| テイラーの乱流発生の指摘 |
ところがそのころロスアラモスを訪れた英国の流体力学の権威G・I・テイラーは、密度の異なる二つの部分の境界面、つまりタンパーとプルトニウム・コアの境界面が不安定となり、乱流が発生するであろうと指摘したため、爆縮法はまたまた冷水をかぶってしまったのです。それはIBM計算機を使った計算で、次の二つの理想化が行われていたからです。(a)タンパーとコアに加わる爆縮衝撃波は完全に球対称である(b)タンパーとコアの圧縮、核爆発の全過程を通じて完全な球対称性が保たれる。
テイラーは、圧縮の過程でも核爆発の過程でも、この対称性が破れてタンパーとコアが混じり、(b)が成立しない可能性があることを指摘したのです。
(a)については、外殻の化学爆薬の殻上に多数の引火点を設ければ、各点からの爆発衝撃波が互いに干渉して内向球面衝撃波が得られるものと、初めは安易に期待されていました。しかし、実験してみるとタンパー外面に加わる爆圧は球対称からほど遠く、また引火の同時性の実現も困難だったのです。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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