| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第17回 1944年夏の危機 |
| 中嶋篤之助 |
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U(ウラン)235が十分量得られるようになれば、それを二つの部分に分けておき、急速に合体させて「臨界量」を超えさせさえすれば、ただちに核爆発が起こります。問題は「いつまでに十分量の高濃縮ウランを得られるか」が、マンハッタン計画の成否の鍵を握っていたわけです。ところがPu(プルトニウム)が核分裂性であることがわかり、それも同様に合体させればよいと考えられていたのです。
第1図と第2図は、二つの合体方法の案です。最初の砲撃法の案は英国からのモード委員会の報告にも示されていました。高性能重砲の技術はすでに存在しており、そのためPuに対してもU235と同様に砲撃法が使えるだろうと考えられていたのです。しかし、オッペンハイマーは、Puについては初めから強い危惧を抱いていました。Puの発見者であるシーボルグは、Puの出すα粒子が不純物として含まれる軽元素を衝撃して中性子を発生させ、それが早すぎ爆発≠引き起こす可能性があると心配されたのです。第2図はサーバーによる原爆についての総合講義、いわば研究所開所講義ともいうべきものでした。第2図aで左側の砲弾部分が右側の穴に押し込まれるときには、まず臨界状態が実現し、続いて超臨界状態になるわけですが、臨界状態に達するやいなや核分裂連鎖反応が始まり、それが放出するエネルギーで装置全体が吹き飛ばされ、貴重な核分裂性物質のほんの一部だけしか使用されないことが起こりえます。これが早すぎ爆発≠ナす。ここで問題となる時間の単位は、一億分の一秒です。この早すぎ爆発≠減らすには、
@砲弾部分を打ち込む速度を大きくして、二つの部分が合体する時間をできるだけ短くする。
A(α、n)核反応で中性子を発生する不純物の軽元素をできるだけよく除去するようにすればよい。 とサーバーは考えました。
砲弾部分が超高速で受容部分に打ち込まれると、宇宙線中性子やバックグラウンド中性子による核分裂連鎖反応の出発が間一髪遅れて、装置が壊れてから遅ればせに核爆発が起こる可能性が考えられます。これが遅すぎ爆発≠ナす。遅すぎ爆発≠防ぐには、砲弾部分が受容部分にキッチリはめ込まれた瞬間に核分裂連鎖反応を発生させるような「仕掛け」を設けるとよいのです。たとえば、砲弾部分の先端にベリリウム、受容部分にポロニウムを装着しておくと、両者が接触した瞬間にポロニウムからのα粒子を受けたベリリウムから、(α、n)反応で中性子が発生し、核爆発の引き金の役割を果たします。これが反応開始装置です。
サーバーの講義の中で第2図bのような爆縮法のアイデアが示されました。それを聴いたネッダーマイヤーは第3図のような爆縮法の設計を思いつきました。しかし爆薬の専門家たちは一様な内向性爆発などは全然実現不可能として一笑に付したのですが、オッペンハイマーはこの考えを取り上げ、彼を小さなグループのリーダーとして爆縮法の基礎実験を行わせることにしました。
サーバーの講義の時点では、つまりロスアラモス研が始まった時点では、まだ多くの基本的なデータが揃っていませんでした。にもかかわらず、なんとかなると思いこんで、Puガンの設計が進められ、1944年1月には基本設計がまとめられました。それは長さ5メートル余、直径50センチ余、昔の戦艦の巨砲の先端をふさいだようなものになり、「痩せ男」(シンマン)という名がつきました。U235のほうは中性子バックグラウンドは低いから、Puガンができあがれば、Uガンのほうは、それを縮小すればよいと考えられました。
ところが1944年春、天然ウラン原子炉でつくられるPu239は、同位元素Pu240を含み、それが「自発核分裂」を起こして中性子を発生することが確認されました。初めは(α、n)反応による中性子のほうが、自発核分裂による中性子よりも早すぎ爆発≠フ原因になると考えられました。
オッペンハイマーはフェルミの高弟であるセグレにPu240問題の研究を依頼しました。1944年6月初めにはセグレは慎重な研究の結果、Pu240が高い率で自発核分裂を行って、(α、n)反応による中性子の数より数百倍も大きいことがほぼ確かめられました。
1944年7月4日、オッペンハイマーは研究所の談話会で、「Pu240の自発核分裂による高い中性子バックグラウンドのため、砲撃法にPu239を使用することは不可能になるおそれがある」と発言しました。7月4日はアメリカの独立記念日で国家休日でしたが、ロスアラモスは休みませんでした。この日にPuガンの死刑宣告≠ェ行われたわけです。シンマン(痩せ男)の実物大模型はすでに軍に手渡されて、投下演習が始まっていました(シルバー・ストーン作戦)。これから後は、シンマンの長さを半分にしたUガンが「ちびっ子」(リトル・ボーイ)と名付けて開発されることになります。
マンハッタン計画最大の危機「一九四四年夏の危機」の始まりでした。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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