| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第16回 ロスアラモス研究所設立 |
| 中嶋篤之助 |
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ロスアラモス研究所は1943年3月に創設されました。ロスアラモスという、最寄りの町サンタフェから48キロも離れた荒涼たる山地が研究所の用地に選ばれたのは、次の理由からです。
シカゴの冶金研究所とは別の「兵器研究所」を設置する必要があることは、42年の半ば頃から指摘されていました。冶金研究所における徹底したコンパートメンタライゼーション(Compartmentalization)すなわち軍管理の要求する機密保持のための、科学者間の情報交換の制限措置は、科学者の不満を増大させて、結果的にそれが研究の速度を遅らせたと考えられたからです。
オッペンハイマーもまた、ロスアラモス研究所長に指名される前から、コンパートメンタライゼーション方式の研究所では口論が絶えないだろうと指摘していました。そこで研究所内での科学者間のコミュニケーションを自由にする代わりに、研究所自体を「隔離」状態にすることが考えられたのです。この方法は、マンハッタン計画の陸軍の代表者であったグローブスの賛同を得やすいものでした。科学者を「プリマドンナ」とか「不良少年」などと秘かに呼んでいたグローブスにとって、人里離れた研究所は、わがまま極まりない集団を「閉じこめて躾ける」のに最適だったからです。
42年11月23日にはロスアラモスが正式に研究所の用地として選定され、12月にはグローブスの要請により、必要物資と人材の供給をカリフォルニア大学が検討し始めます。なお、機密保持のため、ロスアラモス研究所の存在自体が極秘となり、陸軍や関連企業との契約はカリフォルニア大学が代行することとなりました。
オッペンハイマーの所長への抜擢にたいしては、当初からFBIの大反対があり、けっしてスムーズな人選ではありませんでした。FBIはオッペンハイマーがスペイン内戦中に人民戦線側を支持していたこと、共産党員と親密であったことなどを理由に所長就任に反対しました。しかしグローブスは強引にこれらの反対を押し切りました。その理由はオッペンハイマーがノーベル賞の受賞者ではなく、つまりプリマドンナ性が少なく、さらにその卓越した説明能力に惚れ込んでいたからです。オッペンハイマーの説明能力のおかげでグローブスは、自分が物理学の素人であることを忘れることができたのです。
またオッペンハイマーは、ハーバード大学を卒業後ヨーロッパに留学し、量子力学誕生直後のドイツ・ゲッチンゲン大学でM・ボルンの指導のもとで量子力学を研究した経歴から、多くの優秀な物理学者を友人としてもつことになり、このことは研究所にこれらの人々を招くうえで大きな助けとなりました。彼が人材集めの第一号として招いたのが、のちに理論部長として爆縮法(implosion)実現のため活躍したハンス・ベーテです。
ベーテは67年、ロスアラモス研究所の雰囲気を次のように語っています。
「ロスアラモスはオッペンハイマーがいなければ成功しなかったであろう。彼はリーダーであった。しかし彼は独裁者ではなかった。ロスアラモスは極めて民主的に運営されていた。各部門の責任者で構成された運営会議で、技術的な問題から研究所の方針に至るまで、あらゆる問題が討議された。50名ほどのグループリーダーからなる調整会議では諸段階における技術的進展が報告されて、研究所内のさまざまなグループとの情報交換が常に可能であった。(中略)マンハッタン計画全体からみたとき、各自が自由に情報を交換し、全体像をつかみながら自己の研究を重ねることができたこのロスアラモスの状況は、極めて異例なことであったと言える」。
発足当時の研究所は、理論、実験、化学、冶金、軍需の五部門を抱え、原子爆弾の製造を優先させることを確認していました。五部門は45年春には次の七部門に定着しました。ベーテ率いる理論、ロバート・ウィルソンの実験物理、J・W・ケネディとシリル・スミスの化学・冶金、ウィリアム・パーソンズ大佐の軍需、ジョージ・キスチャコフスキーの爆発物、パッカーの爆弾物理、フェルミの高等開発の各部門です。
暗号名で[Y]と呼ばれたこの研究所はやがて3000人を超す大所帯となり、支出総額は約7400万ドルに。世界的な科学者をほとんど動員した、文字通り史上最大の研究所となりました。
参考文献:中沢志保著『オッペンハイマー』中公新書
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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