| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第13回 マンハッタン計画の発足まで |
| 中嶋篤之助 |
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核分裂連鎖反応を実際に起こしうることが確かめられたのは、前回述べたように1942年12月2日、シカゴ大学でのフェルミらの実験によるものでした。米国はマンハッタン計画によって、広島に投下した高濃縮ウランを用いた原爆一発と、長崎に投下したプルトニウム原爆二発を製造しましたが、マンハッタン計画の発足は42年6月のことであり、同計画が発足したときには連鎖反応が起こりうることは確かめられておらず、果たして超爆弾=核爆弾がどのようにすれば実現できるかも確かではなかったのです。
にもかかわらず、ルーズベルト大統領が原爆開発計画を発足させることを決定した背景には、英国での研究と、それをまとめたモード委員会の報告があります。41年10月9日のホワイトハウス会談で、バネヴァー・ブッシュ科学研究開発局長からその報告を聴取してからです。この会談でルーズベルト大統領が与えた最も重要な指示は、正副大統領、スチムソン陸軍長官、マーシャル参謀総長、ブッシュ、コナントで構成される、のちに最高政策グループと呼ばれる機構が一切の原爆関連政策を完全に掌握するというものでした。
ここに名を連ねているブッシュとコナントは、科学者の出身でしたが、原爆開発の期間中、開発の組織者あるいは管理者として行動したことはあっても、研究開発に直接手を下したことはありませんでした。すなわち彼らは科学者ではなく、科学行政官というべき人々でした。この意味でアメリカにおける原爆開発の発足当初から、重要な政策決定は、大統領と軍、少数の行政官によって独占的に掌握されていたのです。
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| モード委員会 |
ここでモード委員会なるものの説明に先だって、パイエルスとフリッシュの二人を紹介しなければなりません。パイエルスは33年にドイツから、フリッシュは40年にデンマークから、それぞれイギリスに亡命し、たまたまバーミンガム大学で落ち合うことになり、その結果生まれたのがフリッシュ─パイエルス・メモ≠ニ呼ばれる有名な報告です。このメモは、わずか3ページの短いものですが、高濃度のウラン235を用いた「超爆弾の工学的原理」の基本的枠組みを備えており、のちに述べるようにこの枠組みにそって原爆が開発されることになるのです。
その重要性を認識したのがモード委員会で、40年4月以降、正式にとりあげて、41年7月に最終報告が出されるまで、検討が加えられました。モード委員会は原子エネルギーの戦時的利用可能性を検討するためにイギリス政府が設けたもので、航空機生産省の管轄下に置かれました。委員長はG・P・トムソン(電子の発見で知られるJ・J・トムソンの子息で、電子の回折現象の発見で37年ノーベル賞を受賞)が務めました。
この最終報告がルーズベルト大統領に伝えられたことになります。
注 マンハッタン計画の機構は、その時々によって変化していきました。図はマンハッタン管区とS─1執行委員会が設置された42年6月時点の機構と、原爆問題の最終局面から戦後構想にいたるまでの政策を担った暫定委員会、そのもとに科学顧問団が設置された45年5月時点の機構です(山崎正勝・日野川静枝・編著『原爆はこうして開発された』68ページ、青木書店90年7月刊)。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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