| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第10回 ヒトラーと科学者A |
| 中嶋篤之助 |
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第1表は、ナチスが政権を取った1933年から1945年の間に、ドイツにおける地位を離れたノーベル賞受賞者を示しています。この表の第一行がアインシュタインです。この表は後になってノーベル賞を受賞した科学者を含んでいるために、ナチスの反ユダヤ主義的政策が及ぼしたドイツ科学の損失すべてを表してはいません。しかし、この表から当時ドイツの科学が世界でまさに第一級の地位を占めており、なかでも新興の物理学(あえて言うなら原子物理学)において先端的地位を占めていたと言うことができます。
ここに並んでいる科学者名は原子物理学を学んだ者なら必ずどこかで目にしたはずです。やや見慣れないのはデニス・ゲイバー(Gabor)ですが、1971年にホログラフィーの原理の発見でノーベル賞を受賞した、ハンガリー生まれの人です。最近ではホログラフィーも新一万円札に取り入れられて有名になりましたが、はじめはその応用が遅々として進まなかった時がありました。
それはともかく、この表でも3人のハンガリー生まれの科学者が名を連ねており、このほかにもルーズベルト大統領への原爆開発計画をすすめたアインシュタインの手紙の起草者であるレオ・シラードや、ノイマン型計算機の創始者であるノイマン、米水爆の父と呼ばれるテラーもハンガリー出身です。小国でありながら独創的な科学者を生み出す不思議な国です。
この当時、ドイツの学会において、特に物理学の分野で教授の推薦に大きな影響力を持っていたのはプランクとゲッチンゲン大学のゾンマーフェルドでした。2人とも、ユダヤ人であろうと非アーリア人であろうと学問的業績さえあれば、大学の教授職に推すことを躊躇しませんでした。こうしてゲッチンゲン大学は新興原子物理学のメッカとなり、表のフランク・ボルンらがいました。また、ゾンマーフェルドの後任となった量子力学(行列力学)の創設者であるハイゼンベルグはその愛弟子でした。
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| ■オッペンハイマー |
この表には出ていませんが、のちに米国に帰り、カリフォルニア大学の理論物理学教授となり、第二次大戦中のマンハッタン計画において、ロスアラモス研究所をつくり原爆製造を指導したオッペンハイマーは、このゲッチンゲンで理論物理学の学位を取っただけでなく、政治に目覚めたのです。恩師であり共同研究者であったボルンがユダヤ人であるがために大学を追われたことからでした。
ナチス政権下で理不尽な境遇に陥った仲間を援助するために、彼はすでにハンガリーから逃れてきていたウイグナーなどと協力して募金活動を開始しました。これは物理学者仲間が2年間、給料の2〜4%を拠出し、職を失ったドイツの同僚を救おうとするものでした。オッペンハイマー自身、1934年3月から2年間、サラリーの3%をこの寄付に当てていました。
また彼は、当時のゲッチンゲンの開放的な学風と国際協調主義的雰囲気を生涯理想としていて、厳重な軍部の言論統制下におかれたマンハッタン計画の中でも研究所の内部では民主的運営を行いました。その代わりに研究所全体は秘密研究所として社会から隔離されたのですが。
研究所の設立にあたっての人集めの第一号の大物は、ハンス・ベーテでした。彼を迎えることに成功したオッペンハイマーは彼を理論部長に据え、その手腕を縦横にふるわせたのです。
これらについては次回、改めて説明しますが、歴史的にみれば、ナチスの反科学的政策が、マンハッタン計画の成功をもたらしたとも言えるのです。
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(なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者)
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