| シリーズ「広島・長崎被爆の実相」 |
| 第1回 核兵器の出現 |
| 中嶋篤之助 |
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1945年。全世界を巻き込んで戦い続けられた第2次世界大戦もようやく終わりが近づきつつあった。
ヨーロッパ戦線では1月にポーランドのワルシャワにソ連軍が入り、2月にはオーデル川、4月にはナイセ川に達し、ベルリン攻撃の準備を整えた。一方、米英軍は3月にライン川を渡り、4月25日にはエルベ河畔のトルガウでソ連軍と交歓した。この日ソ連軍はベルリンに突入し、ヒトラーは自殺しナチスドイツは降伏した。ひとり日本だけが絶望的抵抗を続けていたが、7月26日、米英中はポツダム宣言を発表して、戦後の対日処理方針を発表するとともに、無条件降伏を要求した。
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一方戦後の「国際連盟」に代わる世界の平和維持機構として、1941年8月に発表された「大西洋憲章」に端を発する「国連憲章草案」は、44年6月のダンバートン・オークス会議と、ヤルタ会談を経て45年6月26日、連合国、中立国50カ国の代表がサンフランシスコのオペラハウスに参集して憲章に署名し、10月24日所定の批准数に達して「国際連合」が発足した。6月26日は民間戦闘員の犠牲9万人という悲惨な沖縄戦終結の3日後のことであった。
第1回国連総会は翌年1月1日ロンドンで開催されたが、その最初の決議は「原子力兵器、および大量破壊兵器に応用できるその他一切の主要兵器を、国家の軍備から廃棄すること」を世界に宣言した。これが国連の出発点であり、戦後政治の国際的原点であることを忘れてはならないだろう。いわば核兵器の廃絶を希求することから戦後史は始まったのである。
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ここで注目すべきは、国連憲章の草案がすでに作成され、国連がまさに発足しようとしたその時に、広島・長崎に原爆が投下されたということである。わが国は米空軍の戦略爆撃により、すでに3月10日の東京下町に対する無差別焼夷弾攻撃により、10万を超す死者を生ずるなど、戦争遂行能力をほとんど失っていた。
史上最初の核爆発は1945年7月16日未明、ニューメキシコ州アラモゴードで行われ、この「実験成功」の知らせは折しも日本に無条件降伏を迫るポツダム会談に向かう船中にあったトルーマン大統領に届けられた。彼はこの時、すでに日本への投下を決意していたと伝えられている。
「原爆投下によって100万の米兵の命が救われ、戦争終結が早められた」というのが、今に至るも変わらぬ米政府の公式見解である。しかし、この見解は誤りであることが明らかにされており、何よりも瞬時にして広島・長崎両市で22万人以上の無辜、無防備の市民の命が奪われ、いまなお毎年数千人の被爆者が亡くなっているという事実はまったく無視されているのである。米国のこの行為が明白な国際人道法違反であることはいうまでもない。
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来年2005年は、原爆投下から60年を迎える。原爆投下以後の半世紀はとめどもない核軍核競争と核戦争の脅威に脅かされ続けた時代であった。核兵器の廃絶は実現不可能な夢に過ぎなかった。しかし、1987年の中距離核兵器全廃条約の締結により、核軍縮への曙光がようやく見えはじめた。
しかし、最近のブッシュ米政権の反動的政策は凄まじい逆流となって、歴史の進歩を押しとどめつつある。歴史を一歩でも前にすすめるためには、なんとしてでも核兵器の廃絶を成し遂げることが緊急に必要なのではあるまいか。
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| (なかじま・とくのすけ=常任世話人・核化学者) |
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